KAWASAKI STORY その2.

■赤タンクのB8モトクロッサー

一方、川崎航空機工業でも、独自にニュー・モデルの開発が行われていた。昭和32年に登場した「カワサキ125B8」は、設計段階から川崎航空機工業が取り組んだ最初のオートバイであった。このB8の評価をいっきに高めたのが当時、流行の兆しをみせていたモトクロス・レースでの活躍だった。社内の有志によって結成されたモトクロス・チームでチューニングされたB8は、昭和32年5月19日にMFJ兵庫支部主催で行われた第1回モトクロス大会に出場して1位から6位までを独占、見事に初陣を飾ったのだった。この青木ガ原のレースでの勝利は、瞬く間に全国に広まって、B8は一躍、注目の的になったのである。また、この勝利は、川崎航空機工業のワークス・チーム結成のきっかけともなった。タンクを赤く塗られたB8の工場レーサーを駆って、その後、三橋実、山本隆といった選手が全国のモトクロス・レースを席巻することになった。この通称“赤タンク・チーム”のB8の活躍によって、実用モデル一辺倒だったカワサキは、完全にイメージチェンジを果たして、新境地の開拓に成功したのである。

■カワサキ・スリーの衝撃

昭和40年4月、川崎航空機工業内の単車事業部は単車事業本部に昇格した。また、翌41年には、販売面を統括していたカワサキ自動車販売がカワサキオートバイ販売と改称、いよいよオートバイの生産/販売がカワサキ航空機工業の主要事業となったのである。

また、巨大マーケットであるアメリカへの進出も決定され、シカゴに現地法人のAKMが設立されることになった。こうしたアメリカ市場に向けた輸出専用モデルとして登場したのが、メグロのK2をもとに開発された大型オートバイ、「W1」だった。このW1はアメリカで大いに人気を博し、ビッグバイクのカワサキの名は、全米に知れ渡ることになった。さらに、昭和41年になると、カワサキの技術力を結集した2サイクル・ロードスポーツ、「A1」が“サムライ”というサブネームでアメリカ市場に投入された。このA1は圧倒的な動力性能を武器に、高性能クウォーター・ブームに沸くアメリカ市場を席巻することになった。

一方、国内では昭和44年4月に、川崎航空機工業と川崎重工業、そして川崎車両の3社が合併して、川崎重工業に一本化されることになった。

大市場のアメリカでも、カルフォルニアに新たにKMC事務所が開設され、新生した川崎重工業は、いっそう輸出に力を入れることになった。当時のアメリカは空前のビッグバイク・ブームで、KMCからは大型モデルの要望が日増しに強まっていた。こうしたアメリカ市場からの要求に応えたのが、「500SSマッハ」だった。アメリカではH1と呼ばれたマッハは、2サイクル500cc空冷3気筒という前代未聞のエンジンを搭載した超ド級のスーパースポーツだった。後に、750ccモデルのH2などを加えた3気筒シリーズによって、カワサキのイメージは決定づけられたのである。

その後、1970年代になると、カワサキからも4サイクルのビッグバイク、通称Z1が登場して、同社の歴史は新たな局面を迎えることになる。しかし、1960年代のカワサキは、あくまでも個性的な2サイクル・メーカーだった。そして、その頂点に君臨したのが、3気筒の悍馬、MACH-IIIだったのである。

風倶楽部

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