陸王
1920年代初頭におけるHarley Davidsonマシーンの日本及び東洋向けの輸出には複雑な要因が絡み合っていた。国内市場の不況により輸出に依存した業界の体質に非難が集中していたのは否めないが、まず初めに、日本の自動車業界並びにオートバイ業界の発展に寄与したことは述べておく必要がある。東京の精力的な代理店はすでに年間600〜700台のIndian製マシーンを輸入しており、その40%はサイドカー装備であった。昭和天皇は数年間、このサイドカーに乗っていた。
H・Dマシーンは、1912年から1917年の間に少量ではあるが軍隊によって輸入されていた。が、スペアパーツの注文は一切無かった。おそらく、軍の役人達が故障無しと謳ったH・Dの広告をそのまま鵜呑みにしたからに違いなかった。1919年以来限られた台数のアメリカ製自動車を輸入していたオオクラ男爵率いる日本自動車K.Kは、1922年春、74立方インチ“J”モデルフル電装品装備仕様を少量トライアルオーダーした。翌年、必要性の高いスペアパーツを在庫で持とうというH・Dの提案を断り、さらに1ダースのマシーンを輸入した。
この時期、サンフランシスコの貿易会社であるCharles Cable Companyは、進行中である内モンゴルの首都ウランバートルでの商取引についてH・D社に進言した。もし、内及び外モンゴルにおけるH・D製品の販売権が手にできれば、H・Dの納得できるオーダーは可能であり、サンフランシスコ銀行に設定した船積み証券に対して支払いを行うと提案したのだった。
その一方で、Charles Cable Companyは、H・Dマシーンを実際にオーダーしていた。支払いはサンフランシスコ銀行の預金から引き渡し時に行われた。H・DはCharles Cable Companyが何らかの方法をとってウランバートルへ供給しているのだと察したが、スペアパーツの注文のないことがどうにも解せなかった。ゴビ砂漠に囲まれ羊とラクダの飼育を基礎とした経済情勢下のこの地域に、マシーンショップが存在するはずもなく、そのような作業を営むことが可能であるとは考えられなかったのである。Charles Cable Companyはモンゴル人が自身のスペアパーツを所持しているのだと主張した。この時、H・Dの代表として南アフリカ視察から戻って来たばかりのAlfred Rich Childは、直ちに日本と極東に潜在するオートバイ市場について調査するように会社の要請を受けた。
1923年9月1日、日本の関東及び東部地方は大規模な地震による大災害に見舞われた。何十万もの人々が死傷し、何百万もの人々が被災した。この頃、Charles CableはH・D社を訪れ、輸出部名誉会長であり販売部長としての手腕も見せていたEric Von Gumpertと会談した。Cableは日本、韓国、満州向けのH・D卸売業としての雇用契約を進言。が、Gumpertは上層部の命令によりこの件を報告、指示を待った。日本におけるH・D製品の正式な卸売業者は日本自動車K.Kであったため、上層部は輸出販売代理人としてのAlfred Rich Childの調査期間中は何の指示もしなかった。
さらに状況は複雑を極めた。1924年春、アメリカ議会はアジア人のアメリカ移民を制限する厳格な移民法を定めたのだった。当然、日本人も含まれていた。このことは日本人のプライドを大きく傷つけ、北海道から鹿児島に至るまで日本の各都市で暴力的なデモが発生した。ワシントンD.Cの日本大使は派生する問題を危惧して不服の申し立てをした。
このようなアメリカに対する敵対感情が渦巻く中、Alfred Rich Childは1924年7月に横浜に到着、東京の帝国ホテルに宿泊した。数日後、Childはオオクラ男爵との食事に招待され、この際Cableとオオクラ男爵が知人関係にあることを知った。男爵はイギリスとアメリカ双方で教育を受けており、英語は堪能であった。
オオクラとの次の会談でChildは、メンテナンスに必要なスペアパーツの在庫を持たない日本自動車の経営方針と販売成績の不振を指摘した。これに対してオオクラは、販売ポリシーを擁護し続け、なおかつ現在の年間契約の継続を要請した。お互いの意向が噛み合わないままに何回かの会談が持たれたが、最終的にChildは取り引き停止を申し入れたのだった。
この重大な時期に、伊豆半島のお茶栽培者の代理人として一時期ワシントンにいた山田という日本人が、フクイゲンジロウという人物をChildに紹介した。フクイはアメリカで教育を受け、今や世間の評判を集めている東京丸の内の三共製薬の創立者の一人として名を連ね、同僚のタグチイチタと共に、三共製薬の貿易子会社コートー貿易の経営を担っていた。三共製薬の社長シオハラマサタクは、ベークライトの発明者であるBeakeland博士と交渉し、この素材を元にした製品の日本における権利を手に入れようとしていた。
H・D代理店としての独占的権利が日本自動車にあるにもかかわらず、Charles Cableは本来モンゴルに引き渡すはずのH・D製品をコートー貿易会社に事実上密売していた。それは後に、Childの知るところとなった。
Childはコートー貿易会社の裏取り引きを知りながら、H・D社の方針により三共製薬をH・D卸売業者に据えるため主要人物三人と交渉を開始。大地震による影響で、1,200ccサイドカーやサイドバン、もしくは3輪リヤカーが向こう数年間は必要とされることは明白であった。
かつてあったCharles Cableとコートー貿易会社の重複取り引きを踏まえ、代理店の長には名義上Childが着任した。日本自動車のオオクラ男爵は自身の利益のために介入を試みたが、もはや余地はなかった。一方の三共製薬側はH・Dとの連絡係としてChildが日本に残ることを快諾していた。最終的にChildは、主にサイドカー付きの350台のビッグ・ツインH・Dを購入するための信用をニューヨークのNational City Bankに取り付けた。それにはスペアパーツ分$20,000と、ディーラーの修理道具分$3,000を含んでいた。すべての取り引きは“Harley Davidson Sales Company ofJapan”の経営取締役にChildを置くという契約によって包括された。彼の報酬はH・D製品が輸入された時点での価格の5%。小売り価格には船賃、梱包費、物品税が加算された。
輸出契約の詳細を電報によってミルウォーキーに知らせた後、Childはアメリカ行きのEmpress of Canada号に乗った。バンクーバーに到着すると彼は、オーストラリアとニュージーランドでのセールスから戻ったばかりのArthur Davidsonと会った。Arthurは、アジア人排斥運動に派生する日本の反アメリカ感情を心配して当初から日本での販売には乗り気ではなかったため、Childの功績を正当に評価した。
次にChildはH・Dの経営者達と日本向け輸出について詳細点を詰め、1924年8月輸入機構の組織化を念頭に、Harry Devineを伴い日本に戻った。Devineは20年近く特許会社に勤務していた経験を持つ、ファクトリーのH・Dパーツ部長であった。
代理店の正式名称は“H・D motorcycle Sales Company of Japan”に決まった。京橋にビルを借りて本社を設置。最初の日本人社員は山田と桜井モトキチという人物であり、二人共もChildの良き右腕となった。桜井は熟練した技術士であったばかりでなく、熱烈なオートバイ愛好者であった。代理店の資本金は三共製薬フクイゲンジロウが調達した。
日本向けの最初のH・D製品は、Arthur Constantineの設計による1925年型であった。漏れやすいフラットタンクに替わり、シートメタルが新しい球根状のタンクを固く結合させていた。
1925年にH・Dマシーンが輸入された時、日本ではオートバイ製造は工業として成り立っていなかった。すでにIndianは様々な製品を造り、資金上の問題から不安定な船積み量ではあったが、年間800〜1,000台の製品を市場に供給していた。が、2年後にはH・Dの輸入がIndianを上回るようになった。同時に、イギリスからAJS、Matchless、Norton 、スウェーデンからHusquarna、イタリアからMoto Guzziそして1927年以降はドイツからBMWが輸入された。Childは、日本での需要が商業分野に大きく占められていることを察知し、リヤカーに動力を与えるサイドカー及びサイドバンとして最も役に立つのは頑丈な74立方インチモデルに他ならないと結論を下した。桜井モトキチはヘビーデューティーとライト・ウェイトのリヤカーを設計。ライト・ウェイトは1925年から1926年にかけて新しく紹介された21立方インチ・サイド・バルブ・シングルを採用して使用するものであった。
日本の製造業者から競合車種が登場した。それはイギリスのJ.A.Prestwich500ccサイド・バルブ・エンジンを採用したリヤカーであった。後にロータリーエンジンを造ったマツダがリヤカーの分野に21立方インチのH・D設計のコピー品を持って参入したのである。
三共製薬の本来の事業は薬品製造であったため、ごく自然に、政府機関すなわち陸軍や海軍に対する契約販売に参与していた。従って、H・Dマシーンを軍隊に販売する契約を取り付けるのはたやすいことであり、自ずとH・Dマシーンは標準的な軍用車両となり得た。加えて、府県警察と郵便局が数百台のH・Dマシーンを購入した。1929年以後には蒋介石と同様、張作霖の息子Chang Hsu Liangが外モンゴルを通じて200台のマシーンを購入した。そのほとんどはサイドカー装備であった。取り引きの拡張に伴い、大阪、福岡、満州の大連に支店を開設、東京の溜池にも作業施設とスペアパーツ倉庫を備えた地上4階の建物を建築した。スペアパーツは東京を起点に日本全国、満州に配分された。さらに、約400のサービス店、ディーラーが全国に設置された。例外はあったものの、それらの大部分は東洋独特の単一家族企業であり、エンジンや機械の修理作業は生活の場に極めて近いところで行われ、しかも間に合わせのような部屋でしかなかった。Childは実情を鑑み、H・D社で通常使用している仕事台を用意するのは無駄であると報告した。
日本におけるH・D代理店の創設以来、Childは少なくとも年に1回はミルウォーキーに出向いた。ある時、彼は船積み方法の改善を提案した。なぜなら、運送中の取り扱いが粗雑なため、しばしば梱包マシーンがひどい損傷を受けていたからである。これはかなり重要な問題であった。Childは特別に頑丈なパッケージを要求した。Childの左手の骨に癌細胞が見つかったのはこの頃である。直ちにMilwaukee General Hospitalで治療を受けたが、その後、東京Saint Lukes Hospitalにおいて切断手術を決心した。
1929年秋、アメリカ製品の輸入業者に緊張が走った。1924年には円は49と1/4アメリカ・セントと同等であった。が、突然20〜30セントに下落したのだった。これはH・Dマシーンの小売り価格が2倍にはね上がることを意味していた。Childはこの事態に際して、H・Dマシーンの日本向け輸出の中止と、契約が会社に利益をもたらすようにH・Dマシーンの製造権を日本に保証することを考えた。この時まで彼は日本における利益の追求を思い、原料リストと仕様書、熱処理方法、マシーン・ツールと鋳型順序、そしてすべての必要データーに関する権利を保護するため、H・D経営者と充分に話し合った。Childは三共製薬の経営者達を前に資金返済を申し出、ようやく同意にこぎつけ、H・D社との連絡代理人として活動したシオハラの義理の息子を同行に、横浜港を出航した。
ミルウォーキーでの会議の席上、創立者達は日本でのH・Dマシーンのコピー製造についてその技術的及び機械的能力に非常に懐疑的な態度を示した。それにもかかわらず保証を申し出たChildの言動は、無謀としか思えなかった。が、突然の世界的不況は避けようがなく、何回かの交渉を経てローヤルティーとして$75,000を支払うことと共に、日本におけるH・Dマシーン製造に関して三共グループとの契約を締結した。H・Dは必要な青写真、原料リスト、地金明細、そしてその他のオートバイ製作に関するすべての指導を用意することに合意した。この契約の見返りとして、日本製H・Dマシーンは輸出しないこととした。また、実際にマシーン製造に着手するまでは、三共がミルウォーキー製のH・Dマシーンを引き続き輸入することにも同意を得た。さらにChildは三共の製造操業を監督させる名目で、H・Dの工場副監督であったFred Barrを雇用した。Barrはチーフエンジニアとして、3年間に限り彼にとっては有利となる無税契約を提示された。確かにBarrはミルウォーキーでは重要な人材ではあった。が、不景気のあおりを受け会社側が人員削減を実行している現在では会社側がBarrを手離すことに異論はないはずだと、Childは考えたのである。
Barrは新しい任地でも重責を果たした。1925年三共の第一技術監督であったA.桜井氏と共にエンジニアとメカニックのグループを結成し、下請けがミルウォーキーからの青写真を元に造り出す様々なコンポーネント・パーツを、プロトタイプ組み込みの前の試作の段階から検査、評価したのである。これらの作業はすべて品川工場で行われた。まさに、日本における最初の本格的なオートバイ製造工場であったのだ。今日、世界市場に君臨するオートバイ業界の先駆けともいえる。日本の製造に並行して最初のライセンス契約通り、VLサイドバルブ74立方インチモデルが初めて横浜港に到着した。が、問題があった。欠陥品だったのである。このエピソードの詳細については後述する。
Barrが日本製のコンポーネント・パーツの調整に携わっている間、明らかに過剰である機械設備がミルウォーキーから購入された。不景気による減産からミルウォーキーで不必要となった設備が処分されたものに間違いなかった。Barrは必要な設備はアメリカの他の製造業者から購入することとし、同時に換算レートを考えドイツからも購入した。
サービススクールでの訓練を目的として日本人のエンジニア、メカニックがミルウォーキーに送られたが、言葉の不都合から思うようにことは運ばなかった。また、H・Dの創設者達や輸出部のスタッフも誰一人として日本を訪れることはしなかった。唯一の例外があるにはあった。が、それはDavidson社長の息子であるWalter Davidsonが短期旅行中に品川工場の前を通ったに過ぎなかった。
三共との契約の前に唯一日本を訪れた人物は、H・Dのサービス及びパーツ・マネージャーJoseph Ryanであった。彼は1925年Childの要請を受け、輸出契約に付随するスペアパーツ分散システムの設定に正式に力を貸したのだった。
日本製パーツで仕上げられたH・Dマシーンが実際に販売されたのは1935年のことである。それまでChildはミルウォーキー製マシーンの輸入を継続した。ファクトリーからの上陸価格コミッション5%は1924年の輸出契約の継続に有力な要素となっていた。
三共のH・D製造権取得の交渉中のみならず、日本におけるH・Dマシーンの製作中も、H・Dは三共との取り引きやライセンス契約に基づく日本での製造が大衆に露見しないように細心の注意を払った。これは、日本軍の満州政略や軍事力増強の現実がアメリカの一般大衆を刺激し、非難の的となっていたことに起因する。
依然としてオートバイの大半の需要は商業用運送の分野にあった。輸入されたミルウォーキー製マシーンのほとんどは74立方インチビッグ・ツイン、21立方インチそして30.50R立方インチ・シングルであり、これらは様々なタイプの日本製リヤカーに適応するように仕上げられていた。が、リアホイールと泥よけは装着されていなかった。45立方インチ・ツインは外形とパワー性能がリヤカーへの適用に不向きと判断され、輸入されなかった。
1935年、日本製H・Dマシーンが完成。日本のエンジニアリング組織は製作に関するすべてを修得し、この時点でFred Barrとの契約は終結した。Barrとその家族はシオハラとフクイから感謝の品々はもちろんのこと、ミルウォーキーに戻るに当たって世界旅行の一等汽船切符を贈られた。
三共と親会社H・Dとの間に種々の問題が表面化した。この時期H・Dは、長い間人気を保持し続けてきたVLサイドバルブ・マシーンに替わり、性能アップを図った61立方インチOHVの、クレードルフレーム採用61Eモデルを設計した。創立者達は三共社に、非常に多額のライセンス・フィーを提示し、新しいOHVモデルの製造権を与えると申し出たのである。
ChildはH・Dマシーンの輸入を継続していたため、当然の成り行きとして新しい61Eモデルを1台手にした。息子のRichardはこのマシーンを駆って日本の本州南部400マイルの試乗に出発したが、帰るなり失敗作であると報告した。エンジンは常にオイル漏れし、OHVロッカー機構は再三の調整が必要で、特にバルブスプリングはわずか数マイルで破損してしまう有り様であった。
61Eモデルの最初の1,900台の生産にかかっていたミルウォーキー工場では、精力的に改善を検討し、事実、改良された製品が日本に輸入された。が、それでもなおこれらの多くにはバルブギアの欠陥があり、Childとスタッフは日本での使用に適応するか否か、テストを重ねた。
最終的にChildは、61Eモデルは同時期に製作されていたサイド・バルブ・モデルよりも、若干不適格であると結論した。サイド・バルブ・モデルはより低めで経済的なエンジンスピードにおける牽引力に優れていたため、サイドカーやリヤカー使用により適していたのである。従って、フクイ氏と資金援助者6人、監査役を含めた丸の内三共ビルでの会議では、新しいOHVマシーンのライセンス取得は会社の利益に繋がるものではないとの判断を下した。
さらに監査役の一人は、三共製薬のニューヨーク代理人クサノブ氏に連絡を取った。そしてクサノブ氏は、もしChildがこのまま日本で会社の代理人を続けるのなら三共はこの先日本向けのH・Dマシーンに対して投資することはないだろう、そして三共は新しいOHVマシーンについて全く興味はなく、日本の状況に適している改良済みサイド・バルブ・モデルを品川工場で製造し続けるつもりである、という趣旨をミルウォーキーの4人の創立者に伝えた。改良済みのサイド・バルブ・モデルは文字通り“陸の王者”と翻訳される“陸王”の名の元に製造される予定であった。
かつて、三共のエージェントとして活動しているクサノブ氏は、カナダに生まれアメリカで教育を受けた人物であった。カナダ人と結婚し英語にも堪能であったほか、アメリカのビジネスに精通しており、使者としてはまさに適任であった。が、創立者達に接近するには時期を選ぶべきであった。創立者達は彼の申し出に激しい拒絶反応を示し、中でも大柄なWalter Davidson Jr.( 故Walter C. の息子) は会議を終えた後、クサノブ氏を構内から追い出すほどの剣幕であった。
この頃、Childはミルウォーキー製マシーンの販売状況の報告と、彼自身の会社での立場上の問題から、ミルウォーキー及びArthur Davidsonとの連絡を取り続けていた。最終的な決定は、ファクトリーが三共と品川工場とのすべての契約を終結させ、新しくChildが専属エージェントとしてオフィス、スペアパーツ倉庫、船積み手配を持って販売組織を率いるというものであった。加えて、H・D史上初めて、製品の納入後90日以内に支払うという、定期精算方式を採用することにファクトリーが合意したのだった。Childはさっそく東京に“ニチマンH・D”という本部を設置した。当然これは、国産車陸王の日本の製造業者とは何ら関係のない別組織であった。が、フウイ氏とは友好関係を保ち、1936年彼はChildから数百台のサイドカー装備を購入した。三共との交渉におけるChildの労力に対してミルウォーキーは金銭的な報酬を一切提示しなかった。おそらく、Childが最初の会社を組織してから10年もの間、かなりの利益を上げ続けていたという事実を考慮に入れてのことに他ならなかった。
Childは日本、韓国、北中国、満州においてH・Dセールスエージェントとして独占的な活動を始めた。74と80立方インチ・サイド・バルブ、61E OHVマシーン、付随するスペアパーツの権利を手中にしていた。加えて、溜池で販売部長にあったフクイ氏が陸王系列の余白を埋めるようにChildから購入したミルウォーキー製マシーンを販売し続けていた。しかし、将来を有望視されていたこの事業は1937年1月に突然幕が降ろされた。新しく台頭した軍国主義一色の政府が、オートバイの輸入関税を74円から560円に引き上げることを国会で決議したのである。
この背景にはChildとフジイ大佐間でのやり取りが事前にあったらしい。当時フジイ大佐は民間の製造業者と軍の調達機関との連絡係を務めており、彼はChildに日本の資産を処分し商業活動を中止し、一刻も早くアメリカに戻ることを勧告した。その際、輸送中の製品に限らず、現在在庫しているマシーン及びスペアパーツの買い取りを確約した。また、Childの保有証券の現金化を促進する意味も含めて、日本からの持ち出しが困難とされていたアメリカドルでの買い取りを申し出たのだった。
当然のごとくChildは拒絶した。彼自身の言葉を借りれば、日本での生活を謳歌し厚い友情関係にも恵まれ、東洋美術への強い関心を持ち、そして横浜、鎌倉、軽井沢に豪壮な邸宅を持っていたのである。が、軍事体制が政治を支配する環境下で一外国人の租界を要求することは期待できるはずもなく、Childはフジイ大佐の要請を受け事業を停止、輸送中のオーダー品を含めマシーンやスペアパーツの在庫を一斉に売却したのだった。
事業停止の余波を最小限に止めるべく、Childはフジイ大佐の最後通牒の詳細をミルウォーキーに打電、同時に輸送中のオーダー品に加え、さらに300台のマシーンを即刻出荷するように要求した。が、経営者側は慎重な判断をもって手元の証券を至急換金するように返答したのだった。これに応じてChildは鎌倉の邸宅を売却し、一路ミルウォーキーに向かった。彼は内心ミルウォーキーの販売部でそれなりの地位を与えられるものと期待していたが、Arthur Davidsonの回答は意に反して、そのような地位を用意するつもりはないとのことだった。逆に、日本での事業で築いた財産を考えれば会社の給料体制に甘んじることも非ではないと言明した。会社側にとっては当然の判断といえた。Childはこのような経緯を経て、次にインディアナ州South BendのBendix Manufacturing Companyで北中部の販売代理人としてのポストを得た。その地域における全般的なビジネスとマーケティングに対する豊富な知識と経験を買われてのことだった。
一方、三共は軍事色の強い政府の管轄下にあって、H・Dと新規の契約を交渉することは極めて困難な状況にあった。戦中、戦後と品川工場では陸王の製作を継続していたが、1946年以降は大きく衰退し、同時に真珠湾攻撃の直前まで海軍の魚雷を製作していた。これらがアメリカの太平洋艦隊に対して使用されたことは紛れもない事実だった。H・Dと東洋との関連は詳細に至るまで、公式にも非公式にも徹底して公表されることはなかった。アメリカ国内の軍隊や上層部の政府役人に波及する恐れのあったことから、会社は日本の軍隊に関連する製品については隠蔽するのが得策であると判断したのだった。
Childの息子Richardは1935年と1936年にニチマンとH・Dが輸入契約を交わした際、助手を務めた第二次世界大戦後には、東京の高輪に本社を置くBalcom Trading Companyを設立。この会社は近年まで、H・Dオートバイの独占的輸入業者として存在していた。現在、日本はオートバイ製造の世界的なリーダーとして確固たる地位を築いている。が、その日本で毎年数百台のミルウォーキー製H・Dが販売されていることも事実である。
Childの功績は実に大きかった。オートバイ製造が発展するずっと以前の日本の輸送機関経済に対する貢献度、オートバイ業界に対する影響力、そしてアメリカの業界不振の際のH・D社に対する貢献度、これらのどれを取ってみても価値のあるものだった。Childの自身の記録によると、三共は1924年から1936年まで年間平均2,000台のH・Dマシーンを輸入し、1930年から1936年の間に数千台の陸王を製作、そのうち800〜1,000台がオーストラリアとニュージーランドに輸出されていた。従って、日本とオーストラリアでの販売がH・D社の存続に極めて重要な役割を担っていたというわけである。輸入業務に付随するH・Dとの様々な問題があったにしろ、経営者側は常にChildに協力的な姿勢を崩さず、彼を正当に評価した。
陸王が辿った運命は厳密にはH・D史に加えるべきものではない。が、日本を訪れたオートバイ・ジャーナリストCharles D.Bohonの資料を見る限りでは非常に興味深い。
軍政府の指揮下にあった三共は、1937年以降、後に97型軍用モデルと呼ばれる、オリジナルのVLベースモデルの製作にかかった。このモデルはサイドカー・ホイールへのインテグラ・シャフト・ドライブを採用、通常、サイドカー・マシーンとして製作された。1937年から1942年までに約18,000台を製作、このうちの何台かは容量アップを図った燃料タンクの形状により、多少マシーンの外観が劣っていた。また、リヤカー仕様もあった。設計は全てサカリ氏が担当した。
H・Dの最新モデルPanheadが製作されたのは、日本経済が復興した後の1950年のことである。1950年後半になるとPanheadはH・Dタイプのリア・サスペンションと液圧フォークを採用、白バイでの使用を想定した。生産台数は年間1,500〜2,000台程度であった。
1950年以後、戦前の30.50モデルCを模倣したシャフト・ドライブ・単気筒マシーンが少量ながらも市場に登場した。また、1937年から1945年にかけてはクロガネ社がVLモデルのコピー品をほぼ完全な形で製作した。が、クロガネ社の所在地は広島であったためアメリカ空軍の原爆投下によって壊滅してしまった。
陸王型マシーンの製作は1959年以後中止。一時期日本の国内商取引委員会に名を連ねていた故モロマツタカシは、Richard ChildによるH・D製品の輸入再開が日本のオートバイ愛好者を惹き付け、業界に著しい影響を与えたと見解を述べた。
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