メ−カ−・ヒスト−リ− MEGURO
■国産モ−タ−サイクルの黎明期
こんにちヴィンテ−ジ・モ−タ−サイクルの雄として知られるインディアンが誕生したのが1902年( 明治35年)、その一年後には、はやくもモ−タ−サイクルという新手の乗り物が、日本にも紹介されたと言われている。横浜在住の外国人貿易商によって輸入されたト−マス号とミッシェル号と呼ばれた、これらアメリカ製の初期型モ−タ−サイクルは、たちまち新し物好きの日本人の注目を集めることになった。とはいっても所詮は庶民には高嶺の花、モ−タ−サイクルは華族社会の子弟といった裕福な嗜好家の間で、静かなブ−ムを巻き起こすことになった。
しかし、その後、元号が明治から大正に変わる頃になると、石川商会、伊藤忠の前身の野沢組といった大手貿易商が、ノ−トン、トライアンフといった当時の最新鋭モ−タ−サイクルの輸入業務を開始、それにつれて国内の舶来モ−タ−サイクルのシェアも、年間数千台規模にまで急成長していった。
一方、こうした新市場の誕生は、モ−タ−サイクルの国産化にも拍車をかけることになった。先ず、国産化の先鞭を切ったのは大阪の島津楢蔵で、独力で開発した4サイクルの397ccエンジンを自転車フレ−ムに搭載したNS号が1909年(明治42年)に発表され、国産第1号モ−タ−サイクルとして注目を集めることとなった。そして、その後も、アサヒ号で知られる宮田製作所の宮田栄助、サンダ−号の渡辺士(たけし)、SSD号の宍戸兄弟といったパイオニア達によって、次々と国産モ−タ−サイクルが誕生していったのである。
後に目黒製作所を興して、わが国のモ−タ−サイクル史に確固たる足跡を残すことになる村田延治も、こうした国産化のパイオニアの一人であった。村田はこの時期、東京・赤坂に居を構える勝伯爵(あの海舟の孫だ!)に請われ、邸内の工房でハ−レ−をモデルにした1200ccエンジンのジャイアント号を完成させていた。しかし、この大型モ−タ−サイクルはパトロンである伯爵の意向で、当初から量産の予定はなかった、といわれている。そのため、村田の処女作ともいえるジャイアント号は、たった3台が製作されただけで、脚光を浴びることもなく勝家の邸内で生涯を終えることになった。
■目黒製作所の設立
本格的なモ−タ−サイクル、ジャイアント号を完成させた村田はその後、関東大震災の翌年にあたる1924年(大正13年)8月に、鈴木高治と共同で東京の品川区大崎本町(現住所)に目黒製作所を設立、焦土と化した東京を舞台に順調に業績を伸ばしていった。創業当初は、従業員数10名足らずで歯車の切削加工を生業としていた目黒製作所だったが、やがて既成のモ−タ−サイクル・メ−カ−の求めに応じて、ミッションやエンジン(500 ccOHV単気筒)といった高度な製品を供給するまでに成長していった。
こうして着実に2輪メ−カ−への業績を積み重ねていった目黒製作所が、自らの名を冠したモ−タ−サイクルの生産に踏み切ったのは、1937年(昭和12年)のことであった。ことモ−タ−サイクルに関しては一方ならぬ知識の持ち主であった村田は、新たにモ−タ−サイクルの生産を開始するにあたって、スイスのモトサコシMGAのエンジンとベロッセットのフレ−ムをコピ−ベ−スに選んだ。そして、完成したのが、498 ccの4サイクル単気筒エンジンを搭載したメグロZ97型だった。
目黒製作所の豊富な技術的蓄積に裏付けられて製作されたZ97型は13HP/3800rpmのパワ−を誇り、3速手動右チェンジを介して最高速度は76km/hに達し、先発メ−カ−の重量級モ−タ−サイクルと比較しても、けっして見劣りする物ではなかった。いや、むしろ性能的にはライバル車を凌駕していたZ97型はその後、各地で開催されたレ−スでは、無敵を誇ることになったのである。やがて、こうしたZ97型の優秀さは警視庁も認めるところとなり、1989年(昭和14年)にはZ97型は白バイとして正式に採用されることとなった。こうして、警視庁のお墨付きを得た目黒製作所は、陸王内燃機とともにわが国を代表する大型モ−タ−サイクル・メ−カ−として君臨することになったのである。
目黒製作所の2輪メ−カ−としてのスタ−トは、順風満帆といえた。こうした成功は、目黒製作所の工作技術の高さと、エンジニアとしての村田のモ−タ−サイクルに対する造詣の深さを如実に物語っていた。
だが、好調な立ち上がりにもかかわらず、目黒製作所の未来はけっして楽観できるものではなかった。第2次世界大戦の戦火は、すぐそこまで迫っていたのである。結局、目黒製作所はその後、軍需工場への転換を余儀なくされ、畑違いの軍用航空機の部品を生産することになったのだった。この辺りの事情は、
ライバルの陸王97式、くろがね号97式が陸軍に採用されたのとは対象的であった。目黒製作所は、後発メ−カ−ゆえの辛酸をなめた、ということだろうか。ともあれ、好評を博したZ97型は、1940年(昭和15年)にメグロZ98型に発展したのを最期に、生産中止の憂き目にあうことになったのである。連合艦隊のZ旗と皇紀2597年から命令されたと言われる目黒製作所の戦前の傑作車、Z97/98 型は結局、300 台余りが生産されたに止まった。
■終戦後の再スタ−ト・Zシリ−ズ
敗色が濃厚となり、日増しにアメリカ空軍機による爆撃が激しさを増すに至って、昭和19年7 月に村田延治は工場疎開を断行することになった。そこで、選ばれたのが都下五日市と村田の故郷の栃木県那須烏山だった。村田のこうした機転は間一髪で功を奏し、目黒製作所の工作機械の大半は、あの昭和20年5月の東京大空襲の戦火を逃れることができたのである。
こうした事情もあって、終戦後の目黒製作所の生産拠点は、烏山工場に移されることになった。そして1946年(昭和21年)2 月にははやくも、この烏山工場を拠点にして、三井精機のオ−ト三輪用トランスミッションの受注生産が開始された。その後しばらくの間、この烏山工場はミッション専門工場として、目黒製作所の発展の一翼を担うことになる。 一方、東京の本社社屋は、東京大空襲で全焼してしまっていた。この焼け跡に残ったパ−ツ類と、沼津市の昌和製作所に保管されていたため難を逃れた部品を活用して、目黒製作所がモ−タ−サイクルの生産を再開したのは、1948年(昭和23年)のことだった。こうして、戦前の在庫部品を活用して、Z98型の再生産は立ち上がることになったのである。しかし、皇紀にちなんだ車名は流石に変更され、戦後に生産された98型は、単にZ型と呼ばれることになった。
また、モ−タ−サイクルの再生産にあたって目黒製作所は、新たに販売網の拡充を図ることになった。先ず、昭和23年にKK神山商会が全国総代理店に指定され、その下に県単位の総代理店が採用されることになった。この各地の総代理店組織は「メグロ会」と呼ばれた。しかし、この初代メグロ会は翌年、目黒製作所と直接取引をする代理店制度に改められて、代理店会としての「メグロ会」に再編成されることとなり、その後の目黒製作所の躍進の基盤となったのである。
戦前モデルを踏襲したZ型にはその後、各部に改良が加えられて、”高品質のメグロ”というブランド・イメ−ジが定着していくことになる。先ず、過渡期モデル的なZ2型(Z型と並行して昭和26年1月から翌年4までの短期間生産)を経て、昭和27年4月には特徴的なフィッシュテ−ル型マフラ−の最終モデルとなったZ3型がデビュ−、フロント・フォ−クは強化されてリアにもプランジャ−が採用され、乗り心地の向上がはかられていた。次いで昭和27年12月に登場したZ5型(4は欠番)では、世界初の4速ロ−タリ−・ミッションが採用され、エンジンにも大幅に手が加えられていた。
こうした度重なる改良作業の結果、もはやMGAやベロセットといったベ−ス・モデルの面影は払拭されていた。その後、伝統のZシリ−ズは、エンジンの出力アップがはかられたZ6型(それまでの15HP/3900rpmから20.2HP/4400rpm)を経て、Z7型がデビュ−したのは昭和31年4月のことであった。このZシリ−ズの完結モデルともいえるZ7型は結局、昭和36年5月まで生産されて、4000台以上が市場に出回るというシリ−ズ最大のボリュ−ム・セラ−となったのである。
公募によって”スタミナ”と命名されたZ7型は、目黒製作所のフラッグシップという大役を立派に全うした、といえるであろう。”高品質のメグロ”の伝統はその後、新設計の重量級モ−タ−サイクル、Kシリ−ズに受け継がれることになった。
■近代への模索、そして挫折
戦前からの伝統ともいえたZシリ−ズとは別に、1950年(昭和25年)に目黒製作所は、250 ccのJ型を発売、大いに話題を集めた。目黒製作所初の中型モ−タ−サイクルということもさることながら、当時期のクラス分け(1200cc 、750cc 、500cc 、150cc 、100cc)からすると、250cc という排気量は150cc と500cc クラスのギャップを埋める国内初登場の中間排気量クラスだったのである。
この通称ジュニア系はJ2型を経て昭和28年10月にS型に発展した。S系では、エンジンのポ−ト形状が変更され、出力は7馬力から10HPに向上、ミッションも4速ロ−タリ−に変更された結果、トップスピ−ドは90km/hに達することになった。ジュニア系ではその後、S3型という目黒製作所最大のベストセラ−・モデルが誕生している。そして、その後も連綿とマイナ−チェンジを繰り返して、S8型を最期に昭和38年デビュ−のカワサキ・メグロSGに道を譲ことになったのである。
この250cc クラスのジュニア系と500cc クラスのスタミナ系を軸にして、目黒製作所ははやくも、1955年(昭和30年)には、650ccのT1型から、500cc のZ6型、350cc のY型、300 ccのJ3A型、250cc のS2型までをラインアップするに至っていた。しかし、市場では圧倒的に小排気量クラスに人気が集中していたために、販売実績はけっして芳しいものではなかった。
そこで、目黒製作所も遅まきながら、昭和30年6月に125cc クラスのレジナE型の生産を開始することになった。量販車種として期待されたレジナ系の生産にあたって、目黒製作所は本社工場内に車体組立工場を増設、烏山工場でもエンジン生産設備の強化がはかられた。しかし、こうした目黒製作所の期待は裏切られ、レジナの売上は伸び悩むことになったのである。理由は、すでに明白であった。性能追求に心血を注いでいた後発メ−カ−に対して、伝統に縛られた目黒製作所の各モデルは、絶対的な性能で遅れをとっていたのである。
商品構成から見れば、目黒製作所のラインナップは充実したものだった。しかし、性能的な面での劣勢は如何ともしがたく、後にOHCエンジンなども投入されたが、経営は凋落の一途をたどることになったのだった。さらに、こうした傾向を決定的にしたのが、昭和35年の創始者・村田延治の死去であった。求心力を失った目黒製作所は、営業不振にともなった人員整理をきっかけに、泥沼ともいえる労働争議に突入することになり、翌36年2月にはストライキによる操業停止に追い込まれることになったのである。
川崎航空機との業務提携は、こうした危機的な状況の下で締結されることになったのである。以来、目黒製作所は、生産に専念することになり、カワサキはメグロの販売網を活用して販売面の拡充をはかることになった。この間、目黒製作所は東京の本社工場を閉鎖して横浜市港北区に新天地を求め、新たに横浜工場で生産を開始することになった。しかし、事態は好転の兆しを見せることはなかったのである。社員数は全盛期の700 余名から150 名足らずに減少していた。そして、昭和38年に再度、カワサキから増資を受けて、社名はカワサキ・メグロ製作所と変更されることになった。だが、こうした再三にわたる建て直し策も功を奏すことなく、ついに終焉の時が訪れることになったのである。1964年(昭和39年)9月30日、老舗・目黒製作所は、我が国のモ−タ−サイクル史からその名を消すことになった。
メグロ・スタミナK1(2〜X650)
重量級モ−タ−サイクル・メ−カ−、メグロのイメ−ジをリ−ドしてきたZ7型にまで発展して、異例のロングライフ・モデルとなっていた。そしてその間、1955年には650ccクラス初のバ−チカル・ツインエンジンを搭載したセニアTI型をラインナップに加えて目黒製作所の大型クラスはいっそう充実していった。しかし、続々と登場する後発メ−カ−のモ−タ−サイクル群の高性能化の前に、メグロの威信には、次第に陰りが見えはじめてきたのである。31.5馬力を誇ったTI型でさえ最高速度は130km/h 、これではメグロの象徴ともいえる白バイの大役は果たせなくなってしまっていた。そこで目黒製作所は、戦前の設計を踏襲してきたZシリ−ズに見切りをつけて、新たな重量級モ−タ−サイクルの開発を急ぐことになったのである。
そして1960年の東京モ−タ−ショ−で発表されたのが、497cc のOHV並列2気筒エンジンを搭載した“スタミナK1型”だった。同じバ−チカル・ツインといってもK1型に搭載されたエンジンはT1型とは別物で、T1型がトライアンフをモデルにしていたのに対して、K1型のエンジンはBSAシュ−ティングスタ−を模範としていた。いや、実際には、66.0×72.mm のボア・ストロ- クからシリンダ−に切られたフィンの数までそっくりで、外観からはBSAと判別できないほど両車のエンジンは酷似したものだった。そのため、フルコピ−に対する批判もあったようだが、そこは高品質を社是とする目黒製作所のこと、細部を注意深く観察すれば、K1型のオリジナリティ−は随所に見ることができた。BSAのエンジンが6ボルトのマグネト−点火であったのに対して、K1型はバッテリ−点火を採用していた点などはその最たる部分で、さらに圧縮比を上げることによって、K1型は本家の32.4馬力を凌ぐ33馬力を発生していた。また、クラッチはBSAの乾式多板タイプに対して、K1型では湿式多板タイプが採用されるなど、その他の改良点も散見することができた。
また、車体関係も大幅に見直され、メグロ伝統のル−プフレ−ムを踏襲しながらも、計量化がはかられ、K1型の車重は先代のZ7型の210kg を遙に下回る190kgに収まっていた。当時の国内の道路事情を考えれば、この軽量化は称賛に値するもので、こうした努力が功を奏して、K1型の最高速度はいっきに155km/に向上、目標のひとつであった白バイとしての機能も充分に果たせることになったのである。
しかし、目黒製作所の期待を一身に担ったK1型ではあったが、生産は順調とは言いがたかった。先ず、K1型の完成直後に、工場が火災に見舞われ、生産ラインが焼失したのを手始めに、創始者の死去にともなって労働争議が一挙に表面化したのである。こうしたダブルパンチによって、経営難に喘いでいた目黒製作所は、更に窮地に追い込まれることになった。そして、1960年11月、目黒製作所はついに、川崎航空機と業務提携を結ぶ事になり、その後は急速にカワサキ色を強めることになった。
だが、こうした経営側の事情とは別に、最期の純メグロ製の重量級モ−タ−サイクルともいえるK1型は、かろうじて生産されることになった。とはいっても、この生産はいわば警視庁向け(K1P)といえるもので、細々と生産されることになったK1型は、純白の塗装が施されて、優先的に警視庁に振り分けられた。そのため、K1型の一般市場への投入は遅々として進まなかった。また、K1型とともにモ−タ−ショ−で脚光をあびたスポ−ツタイプのKS型は、カタログまで製作されながら、こうした諸般の事情によって、計画そのものにピリオドが打たれることになったのだった。
その後、目黒製作所の経営はさらに悪化の一途をたどることになる。1961年8月には、川崎航空機が目黒製作所を吸収合併するかたちで新たにカワサキ・メグロ製作所が発足、メグロの開発拠点も、カワサキに統合されることになった。
K1型の発展モデル、K2型の開発は、こうした目黒製作所からの移転組の技術者によって、川崎航空機の明石工場内で推進されることになった。K2型の2気筒エンジンは、弱点とされたクランクシャフト及びクランクケ−スをはじめ、シリンダ−回りなど、徹底的に改良の手が加えられることになった。その結果、外観こそ近似性がみられたものの、K1型とはまったく別物のエンジンが完成したのである。こうした改良によって、全長が20mm短縮されたK2型の最高速度は165km/にまでアップ、来るべき高速道路時代にも充分に対処できる高性能モ−タ−サイクルが誕生することになった。旧メグロの技術スタッフが丹精こめて熟成したK2型は、1964年に発表されて、翌65から市販が開始された。
一方、目黒時代の集大成ともいえるK2型を完成させた旧メグロの技術陣は、休む間もなく次期重量級モ−タ−サイクルの試作を開始、1965年のモ−タ−ショ−には早くも、国産最大排気量を誇るカワサキX650 がデビュ−を果たした。このX650 は基本的にはK2型のボアアップ・バ−ジョンともいえる成り立ちのエンジンを搭載していたが、47馬力という飛躍的な高出力化に対処して、クランクシャフト回りのジャ−ナル部にはボ−ル/ニ−ドルロ−ラ−・ベアリングが採用されるなど、ここにも目黒製作所時代からの過剰気味といわれたほどの高品質の伝統が継承されていた。X650 はショ−の翌年には、アメリカ
大陸を舞台に発売が開始され、カワサキ650W1は、海外市場でも高い評価を得ることになったのである。
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