HONDA HISTORY

HONDA

■自転車用補助エンジンの生産

オートバイの世界に君臨する巨人、ホンダは昭和21年10月に創立された。戦争によって灰塵に帰した浜松市山下町に設立された“本田技術研究所”こそが今日、隆盛を極めるホンダの出発点であった。創始者・本田宗一郎は、焼け跡に建てられた50坪そこそこの町工場を拠点に、独力でオートバイの製造を開始したのである。

戦後の復興期には、手軽に生産できた自転車が庶民の足として大活躍した。ホンダの記念すべき第1号製品となったのは当時、日本国中に氾濫していた自転車用の補助エンジンであった。しかし、敗戦直後の国内は極端な物不足に喘いでいた。そこで宗一郎が目を付けたのが、旧陸軍の発電用小型エンジンの再利用だった。だが、この払下げエンジンは改造するそばから買手がつき、瞬く間に在庫は底をついてしまった。

そこで宗一郎は自ら、独学で小型エンジンを開発した。そのシリンダーの形から“煙突式エンジン”と呼ばれたホンダ初のオリジナル・エンジンは、昭和22年の7月に完成、同年11月に量産態勢が整った。2サイクル50ccで1馬力を発生するこのエンジンを自転車に取り付けた「A型」は、翌23年に発売が開始されると、飛ぶような売れ行きをみせた。

A型の好評をうけて、昭和23年9月には、本田技術研究所を継承した“本田技研工業株式会社”が、資本金100万円で設立されることになった。新社屋が浜松市板屋町に建設された一方、同年2月より創業を開始していた野口工場では、ドル箱のA型の増産に力が注がれた。“バタバタ”の愛称で親しまれた補助エンジン付き自転車のなかで、A型は爆発的に売れ行きを伸ばし、発売2年目には国内シェアの実に66パーセントがホンダ製によって占められることになった。

■ドリームと名付けられたオートバイ

しかし、宗一郎の目はその頃、さらに先を見据えていた。自転車用の補助エンジンの先行きに見切りをつけたホンダは、C型のエンジンを鋼板のチャンネルフレームに搭載した、本格的オートバイの開発を急いでいたのである。昭和24年8月に完成したこのオートバイは、未来への限り無い夢をたくして「ドリームD型」と呼ばれることになった。この本格的オートバイの市販によって、ホンダはエンジン・メーカーからオートバイ・メーカーへと第一歩を踏み出したのである。

このドリーム号が発売されて間もない同年10月、後に宗一郎の片腕としてホンダ躍進の立役者となった藤沢武夫が経営陣に迎えられた。そして、営業面での核を得たホンダは、東京営業所、東京工場( 十条工場) を次々に開設、いよいよホンダの活動の拠点は東京に移されることになったのである。

■4サイクルに未来を託して

ドリームD型の増産態勢を整備する一方、ホンダは4サイクル・エンジンの研究を急いでいた。当時の2サイクルには、ノイズ、排気ガス、焼付きといった、明らかな欠点があった。しかし、部品点数が少なくてすみ、コスト的に廉価な2サイクルは、当時の国産オートバイ・エンジンの主流となっていた。ホンダはこの時期、メカニズム的には複雑であるが、将来性のある4サイクルに社運を懸けたのである。そして、昭和26年5月に完成したのが、146ccで5.5馬力を発生するE型OHVエンジンであった。ホンダ初の4サイクル・エンジンを搭載した「ドリームE型」は同年10月から発売され、高級感あるエンジンが人気を呼んだ。

一方、庶民の間では、相変わらず自転車用補助エンジンにたいする需要も根強かった。そこで、ホンダは昭和27年6月に、ベストセラーのA型の後継モデルとして「F型カブ」を発表した。白いタンクに赤いエンジンという出で立ちで登場したF型カブは当時、どこの家庭にもあった自転車に、車種を選ぶことなく簡単に取り付けられるというアイデアがうけた。また、全国に5万軒以上あったという自転車店を販売網に組み込むという藤沢の狙いが見事にあたって、F型カブの売上は急速に伸び、シェアの70パーセントを占めるという驚異的なヒット作となったのである。この時期、相次ぐヒットで好調の波に乗ったホンダは、埼玉県の白子と和光、浜松の葵に次々と新工場を建設、量産態勢の整備に力を入れることになった。

■突如ふりかかった経営危機

ところが、新工場で生産されることになった改良型の「ドリーム4E型」やスターター付きスクーターの「ジュノオK型」にトラブルが続出して、ホンダ車は予想外の不評をかうことになった。また、ベストセラーのF型の販売に翳りがみえはじめていたのも、ホンダにとって痛手となった。新工場の建設にともなって、資本金が600万円だった当時、4億5千万円もの工作機械を導入したホンダは、一転して苦境に立たされることになった。巨額の設備投資が裏目にでて、ホンダは倒産寸前に追い込まれたのである。

この試練の時期をホンダは、藤沢をはじめとする経営陣の懸命な努力と、労働組合の献身的な協力によって、なんとか回避することができた。こうして、やっと窮地を脱したホンダだったが、宗一郎はけっして守勢にまわることはなかった。昭和30年の道路交通法の改正によって到来した“二種バイク・ブーム”に、ホンダは素早く対応したのだった。需要の大幅増が予想された125ccクラスに「ベンリイJB型」を投入して、ホンダは経営の建て直しをはかった。さらに、ホンダはこの年、国産初のOHCエンジンを搭載した350ccの「ドリームSB型」と250ccの「ドリームSA型」を矢継ぎ早に発表、4サイクル・メーカーの心意気を示すことになった。

風倶楽部

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