無敵のマラソンランナー Part.3

■1978年・熟成型のRC482(RCB1000)

前年モデルで方向性の定まったRCBはこの年、熟成に専念して、大きな変更は行われなかった。それでも、1978年仕様のエンジンは130 ~135 ps/10000rpm を発生、弱点といわれたタイヤ(18 インチ) は、リヤが5.75から6.00にサイズアップされていた。この年のモデルは「RC482 」と命名されていたが、RCB1000(通称)とも呼ばれた。開発作業が一段落したこともあって、この年のレース活動はディーラーチームに一任され、HERTは前線から一歩後退することになった。また、前年同様に旧型RCBも貸し出されたため、1978年の耐久シリーズには、76、77、78年型の新旧RCBが入り乱れて参戦、RCBどうしで覇権を競う異常事態が発生した。1978年の耐久シリーズは、ルマン24時間という聞き馴れないレースで開幕した。これは伝統のボルドール24時間が同じフランスのポールリカール・サーキットに舞台を移したために、空いたルマン・ブガッティ・サーキットで開催されたレースだった。(4輪のルマンはサルテ・サーキット)レースは常勝のレオン/シュマランの乗る78年型RCBが、2位のカワサキに20周の大差をつけて優勝。3位カワサキ、4位RCBといった結果だった。また、フランスのローカル・ルール(1200 átまで可)で行われたルマンでは、プロダクション・クラスのドゥカティ(5位)、ヤマハXS1100(7位)、スズキGS1000(9位)、BMW980 (10位)等の躍進が注目された。続く第2戦オランダ・サンドボルト600 áqはホンダUKのウッズ/ウイリアムズ、第3戦西ドイツ・ニュルブルクリンクはホンダ・フランスのレオン/シュマラン、と78年型RCBは快調に勝ち星を重ねていった。一方、この1978年には、我が国では第一回鈴鹿8時間耐久ロードレースが開催され、ホンダの本拠地に常勝RCBが凱旋することになった。しかし、予想に反してRCBは苦戦を強いられ、7番手のグリッドからスタートしたウッズ/ウイリアムズはエンジン始動に戸惑った挙げ句、2周目に転倒リタイア。ホンダ・フランスのエース、レオン/シュマランも10番手を走行中、3時間を経過した時点でバルブ系を破損してリタイアを余儀無くされた。ヨーロッパで負け知らずのRCBは、ホンダの本拠地で惨敗を喫したのである。この波瀾のレースを制したのは、AMA仕様のヨシムラ・スズキGS1000に乗るウェス・クーリー/マイク・ボールドウィンだった。予想外の敗北を喫したRCBだったが、ヨーロッパでの連勝記録は、止まるところを知ず、レオン/シュマランのRCBは帰国直後のモンテフュイッチ24時間を何事もなかったかのように制した。

そして、ボルドール24時間。このクラシック・レースには、日本からヨシムラ・スズキGS、ヤマハTZ750 が遠征、再びRCBに戦いを挑んだ。迎え撃つホンダ勢も鈴鹿での苦い経験をいかして10台のRCBを投入。水も洩らさぬ手堅い作戦を展開したRCBは、レオン/シュマランが優勝、2位にリーガル/リュック、3位にウッズ/ウイリアムズが入って、見事に鈴鹿の雪辱を果たすことになったのだ。1978年のヨーロッパ耐久シリーズを振りかえると、再びRC482 は負け知らずの強さを発揮した。RCBの活躍には、1960年代にホンダの黄金期を築き上げたRC系GPレーサーを思い起こさせるものがあった。RCBの登場によって、再び“強いホンダ”の4サイクル・レーシングサウンズが世界中に響き渡ったのである。無敵を誇るRCB軍団はいつしか、畏敬の念を込めて“浮沈艦隊”と呼ばれるようになった。

■受け継がれるRCBのスピリッツ

1978年のRC482 は、ある意味では完成の域に達していた。しかし、RCBはさらに進化して、1979年の耐久シリーズを迎えることになった。新たに点火系にフル・トラを採用した79年仕様のRC482 は、135 ~140 ps!のハイパワーを発生していたといわれる。一方、1978年にデビューしたDOHC4バルブ・エンジンのCB900 Fをベースに、新型レーサーの熟成も急ピッチで進められた。これは翌1980年からレギュレーションが変更されて、耐久シリーズがTTF1クラスによる国際格式レースに格上げされることを見越したものだった。RCBとこのCB900 改の決定的な違いは、RCBがCB750 KシリーズのSOHCエンジンをチェーン+ギアドライブという複雑なメカニズムでDOHC化しているのに対して、CB900 改は市販車と同じローラーチェーン+サイレントチェーンでDOHCのカムを駆動している点にあった。つまり、プロトタイプのRCBのワークス・エンジンとは異なり、TTF1に“近い”CB900 改は純粋に市販エンジン・ベースで開発されていたのだ。このCB900 改は当初、996.4 át(67.8áo×69áo) 、125 ps/9500rpmと発表されていた。1978年から開発がスタートしたCB900 改の本格的なレースデビューは、1979年の第二回鈴鹿8時間耐久ロードレースだった。このレースでRCBフレームのCB900 改は、ヨシムラ・スズキGS1000、Z1エンジンのモリワキ・モンスター等を相手に善戦。優勝がホンダ・オーストラリアのT・ハットン/M・コール、2位がホンダUKのR・ハスラム/A・ジョージ、とワンツー・フィニッシュを飾った。また、プライベートのCB750 改を含むと、ホンダは8位までを独占して、昨年のRCBの雪辱を果たすことになった。一方、ヨーロッパでは、相変わらずRCBの快進撃が続いていた。そして、RCBにとって最期のボルドール24時間を迎えた。ホンダはこのレースで、1084.3át(73 áo×64áo)エンジンと1062át(72 áo×65áo) のスペシャル・エンジンを投入、レオン/シュマランとハットン/ブレークのRCBに搭載した。レースはホンダの期待を一身に担って、レオン/シュマランのRCBがトップでゴール。無敵のRCBのフィナーレを飾るに相応しい、有終の美を飾ることになった。このレースには、カワサキ・フランス、スズキ・フランスともに、翌年を睨んだTTF1仕様を投入していた。シリーズ・タイトル決定後のレースとあって、各チームの関心は翌年からスタートする新レギュレーションに移っていたのだ。そして1980年、耐久レースは新しい時代を迎えることになった。CB900 改は正式名称を「RS1000」と改め、RCBに代わって世界選手権のタイトルに挑むことになったのである。かつてのCB750 R同様、RSCからシーシング・キットが市販されたため、この年の鈴鹿8時間耐久ロードレースには、4台のRS1000の他に、RSCパーツを組み込んだRS仕様のCB900/750 Fが27台!と大挙して出場することになった。こうして、ワークス・レーサーRCBの栄光は、広く一般に受け継がれることになったのである。

風倶楽部

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