■HERTプロジェクトの発足
耐久レースでの不振は、市販車の売上にも深刻な影響をおよぼした。ライバルのZ1の出現によって、ホンダが長年にわたって築き上げてきた“CB神話”は脆くも崩れさろうとしていたのだ。1967年のワークス・チーム撤退以来、一切のレースに背を向けてきたホンダも、事ここに至っては重い腰を上げざるをえなかった。“1976年 3月16日、苦境のホンダ・フランスとホンダUKをサポートするという名目で、HERT(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)の発足が正式に発表された。1960年代のGPチームを指揮した秋鹿方彦を監督に、開発部門4名、メカニック9名、マネージャー1名、総勢15名という小所帯だったが、HERTはまさしく待望久しかったホンダ・ワークスの復活であった。HERTで開発されたエンジンは、市販車ベースというレギュレーションに従ってクランクケースこそCB750 のものが使われていたが、DOHC4バルブヘッドは白紙から設計され、カムドライブはクランクシャフトとアイドラーギア間がチェーン(ダブル)、そこからカムシャフトまではギアトレインという凝った設計となっていた。また、CB系の特徴でもあるクランク軸からミッションへの一次伝達チェーンは、ストレート・カットのギアトレインに変更されていた。この新設計のレーシング・エンジンは、CB750 のボアを7 mm拡大した915.2 cc(68mm×63mm) の排気量で、最高出力は110ps/9500 rpm 以上と発表された。スペシャル・エンジンを搭載するフレーム関係も、レース専用に設計されていた。しかし、1960年代のRC系GPレーサーがすべて内製にこだわっていたのに対して、ホイールはフランスのスマック製マグネシウム、ブレーキはイギリスのAPロッキード製という具合に、HERTの耐久レーサーはコンベンショナルな一面も持っていた。話が前後するが、1976年のシーズン終了後に、このマシンの正式名称は「RC481 」と発表された。だが、レーシングCBの略称といわれる「RCB」の方が、こんにちでは一般的に通りがよい。(ひとこと付け加えると、先にも記したように当時のヨーロッパ耐久選手権は1000átまでの市販車改造クラスで戦われていたが、HERTでほぼ白紙から開発されたRCBは、プロトタイプ・クラスに分類される)
■1976年・無敵のRC481(RCB941)
1967年10月の日本GPロードレース以来、実に8年6ヵ月ぶりに、ホンダ・ワークスはレースに復帰することになった。耐久シリーズの第1戦、オランダ・サンドボルト600 áqを舞台に、赤/青/白のトリコロールカラーに塗り分けられたRCBが、ついにデビューを果たしたのだ。クリスチャン・レオン/ロジャー・ボーラーの駆るホンダ・フランスのRCBは、この記念すべき復帰緒戦を完璧な勝利で飾ることになった。しかし、ホンダUK組をはじめ、完走できなかったRCBも多く、チームは勝利の美酒に酔い痴れる暇はなかった。HERTの対応は素早く、続く第2戦のルマン1000áqには、改良型エンジンが投入された。この新エンジンは強化型クランクに変更されていたためストロークが微妙に異なり、排気量は941.30át(68 áo×64.8áo) 、最高出力は115 ps/9000 rpm と発表された。この改良型RCBは、エンジンの排気量から「RCB941 」( 通称) と呼ばれることになった。 RCB941 は、デビュー戦のルマンこそ宿敵カワサキに敗退(ホンダ・フランスのロジェ・ルュイ/クリスチャン・ユゲは4位)したが、第3戦イタリア・ムジェロ1000áqではホンダ・フランスのクリスチャン・レオン/ジヤン・クロード・シュマランが優勝。( 他の3台はリタイア)第4戦スペイン・モンテフュイッチ24時間では、優勝がホンダUKのスタンレー・ウッズ/チャールズ・ウイリアムズ、2位がレオン/シュマラン、3位はドゥカティで、4位にはルュイ/ユゲが入り、いよいよRCBの快進撃が開始された。続く第5戦ベルギー・リェージュ24時間では、レオン/シュマランを筆頭にRCB941がトップグループを独占、1位から6位までをホンダ車が占めることになった。(5位はGL1000改!)さらに快進撃は続き、第6戦のメッテ1000áqでのホンダ・フランスのルネ・ギュイリィ/ユーベル・リガルの優勝を弾みに、チームはいよいよ伝統のボルドールを迎えることになった。
第40回の記念イベントとなった第7戦ボルドール24時間には、各チームとも強力な布陣を敷いて乗り込んできた。前年チャンピオンのカワサキも意地をみせたが、終盤にアレックス・ジョージ( 負傷欠場のレオンの代役)/シュマランのRCB941 が逆転に成功、そのままトップでゴール。2位、3位にカワサキを挟んで、4位にウッズ/ジャック・フィンドレイ(ウイリアムズの代役)、5位にギュイリィ/リガルが入った。最終戦のイギリス・スラクストン400 マイルでも、やはりRCB941 が速く、ルュイ/ユゲをトップにワンツー・フィニッシュで最終レースを締め括った。
1970年代の耐久シリーズは、FIMの国際格式レースとヨーロッパ耐久選手権が並行して行われたが、終わってみれば、初出場のRCB941 は8戦7勝という圧倒的な強さを発揮した。とりわけヨーロッパ選手権では5戦全勝!と、HERTはカワサキのディラーチームとの格の違いを見せつけることになったのである。
■1977年・新設計のRC481 A
シーズン開幕直前の3月に発表された1977年仕様の「RC481 A」は、前年のボルドールでトライした997 át(70 áo×64.8áo)エンジンが採用され、最高出力は125 ~127 ps/9000rpm に向上していた。また、クランクケースも小変更され、ジェネレーターがクランク左端から背面に移された結果、エンジン幅がスリムになっていた。車体まわりでは、先ずフレーム構成が一新され、大径肉薄パイプを使用したロブ・ノースタイプが新採用され、スイングアームのピボット部にエキセントリック式のチェーンアジャスターが新設された。また、タイヤ交換を迅速に行うために、前後のホイールはクイックチェンジ式となった他、ブレーキもベンチレイテッドタイプに変更されていた。そして、チタンボルトを奢るなど徹底した軽量化の結果、車重は195 ásから一挙に175ásにまで減量に成功していた。1977年シーズンは、ホンダ・フランスのレオン/シュマラン、リュック/ユゲ、コルボーネン/エバンスと、ホンダUKのウッズ/ウイリアムズの4組に、この新型RC481 Aが託されることになった。また前年型のRC481 も7台がディラーチームに貸し出され、この年はRCBが新旧とりまぜて大挙してシリーズに臨むことになった。こうしたRCBの中には、前年のフレームに1977年型仕様のエンジンを搭載したものや、マン島TTレース専用ともいえる、RCBの車体にCB750F㈼のブラック・エンジンを搭載した変わり種も含まれていた。
話を耐久シリーズに戻すと──。第1戦のオランダ・サンドボルト600 áqには、3台の77年型RCBと6台の76年型RCBが出場、優勝はレオン/シュマランの77年型RCB、2位、3位がディーラーチームの76年型RCB、残りの77年型RCBが4位と8位という結果だった。第2戦イタリア・ミザノ1000áqは、直前にコースがムジェロからミザノに変更されたため、77年型RCBは移送が間に合わず、76年型RCBが2台のみ参加したが、ともにリタイア。優勝はRCBエンジンのジャポート・ホンダのG・グリーン/M・マングレー、2位が76年型RCBだった。 第3戦ドイツ・ニュルブルクリンク24時間は、ホンダUKのウッズ/ウイリアムズの77年型RCBが優勝。 第4戦スペイン・モンテフュイッチ24時間は、ホンダ・フランスのユゲ/コルホーネンの77年型RCBが優勝、4位のジャポート・ホンダを挟んで、新旧RCBが上位6位までを独占した。第5戦ベルギー・リェージュ24時間は、76年型RCBのJ・リュック/B・グレー/R・マーシュルが優勝、2位には転倒から果敢な追い上げを展開した77年型RCBのレオン/シュマランが入った。
第6戦フランス・ボルドール24時間は、打倒RCBを目指して、日本からヤマハ・ワークスのTZ700 が参加。しかし、レースは序盤からレオン/シュマランの77年型RCBがトップを独走、2位のカワサキを退けた。第7戦イギリス・スラクストン400 マイルは、地元のホンダUKの77年型に乗るウッズ/ウイリアムが優勝を果たした。こうして1977年の耐久シリーズでも、RCBは怒濤の快進撃を続けることになった。
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