A1R

A1R 

(リード)

1966年に開催された日本グランプリが、A1Rのデビューレースとなった。発表間もないカワサキ初のロードスポーツ、A1をベースに製作されたA1Rは、金谷秀夫らのライディングでジュニアクラスのレースに参加、ヤマハのGPライダー、G・ニクソンを相手に、いきなり緒戦からデッドヒートを展開したのである。そして、翌1967年にデリバリーが開始されると、A1Rは、ノービス、ジュニアクラスのライダーに、圧倒的な支持を得ることになった。


(本文)

 市販されたA1Rのエンジンは、A1用の250㏄空冷2サイクル・ツインを元に、ポートタイミングを変更して、圧縮比を7.0から8.0に高めるなど、ごく控え目なチューニングが施されていた。それでも、ロータリーディスクバルブのためにクランクケースの両端に取り付けられたキャブレターは、ミクニ製のフロートチャンバー別体式の口径26φに変更され、排気系にはエキスパンションチャンバーが装着された結果、最高出力はノーマルの31ps/8 000rpmから40ps/9500rpmにアップしていた。また、こうした高回転化にともない、潤滑系はスーパールーブ方式の直接給油に加えて、15:1の混合ガソリンが併用されることになった。

  一方、車体まわりをみると、ダブルクレードルフレームに関しては基本レイアウトに変更はなかったものの、前後のドラムブレーキは、前輪が180㎜から200㎜にサイズアップされ、リヤは180㎜の径はそのままだが幅が広げられていた。こうした2リーディングシュー・タイプの軽合金製ダブル・ドラムは、当時のレーサーの象徴ともいえる部分で、A1 Rは市販モデルにはない迫力を醸し出していた。

 エクステリアに目を移すと、カウリングの左右にはキャブレター用のエア・スクープが開けられいたのが、ロータリーディスクバルブのA1Rならではの特徴であった。また、やはり、左右に振り分けられたキャブレターに燃料を供給するために、A1Rの真っ赤なロングタンクには、2対の燃料コックが取り付けられていた。こうして、完全なレーサーに仕立てられ、市販に移されたされたA1Rは、世界中のプライベーターに愛用されることになった。

 ごく小数だが、ヨーロッパに輸出されたA1Rはその後、カワサキの支援を受けたD・シモンズやK・アンダーソンらによって、GPレースにも参戦することになった。しかし、カワサキがA1Rの主戦場として選んだのは北米大陸だった。いや、換言すれば、A1Rはアメリカの巨大マーケットを睨んで誕生した、といっても、あながち間違いではないのである。

 当時、アメリカ市場に進出を果たしたばかりのニューカマー、カワサキはレースによって自社の技術力を誇示しようと目論んだのだ。今も昔も、メーカーの知名度アップには、レース活動が効果的なことにかわりはない。実際、我が国の2輪メーカーはレースを足掛かりにして、世界市場を制覇したのである。こうした事実を考えれば、カワサキの狙いも的を射たものだった。カワサキは、完成したA1Rを大量にアメリカに送り込んだ。そして、現地のKMCにそのレース運営を一任したのである。そして、AMAのレギュレーションによって、A1Rは同シリーズのライトウェイトクラスに参戦を開始した。もちろん、目標とされたのはアメリカ最大のレース、デイトナ・ウィークの100マイルレースだった。しかし、R・ホワイト、D・マン、B・エルモア、S・サベージといった錚々たるメンバーで臨んだデイトナ初挑戦は、散々たる結果に終わった。メカニカル・トラブルが続発したA1Rは全車、リタイアすることになったのである。

 そこで、翌1968年には、耐久性の向上がはかられた改良型のA1Rが投入されることになった。ライダーも大幅に入れ換えられ、R・ホワイト以外は、W・フルトン、R・ゴールド、P・ウイリアムスといった面々が、新たにチームに加わった。しかし、A1Rは再び、トラブルに泣くことになった。AMAシリーズでは善戦していたA1Rだったが、肝心のデイトナでは、勝利の女神に見放されたかのようだった。

 A1Rの生産は結局、2年で打ち切られることになった。かわってカワサキの市販レーサーは、1968年にはA7ベースのA7Rに切り換わることになった。このA7Rの登場によって、晴れてカワサキは、メインイベントの200マイル・ナショナルチャンピオンシップ(350~750㏄クラス)に駒を進めることになったのである。

 1969年は、100マイル・ライトウェイトクラスにはA1RA、そして200マイルにはA7Rでフルエントリーすることが決定され、GPライダーのD・シモンズらが加入して、いっそう強化された。また、日本からも安良岡健が初挑戦することになった。ちなみに、A1RAはワークスレーサーで、弱点だったフレームが新設計されていた他、キャブレターが大口径化され、点火系がCDIイグニッションに変更されていた。

 しかし、万全を期してエントリーしたA1RAの前には、昨年同様、再びヤマハのY・デュハメルが立ちはだかることになったのである。しかも、皮肉になことに、メインレースの200マイルでは、A1RA要員のC・レイボーンが他メーカー車で優勝を飾ったのである。この200マイルレースには、カワサキからもう一台、見慣れないエンジンを搭載したレーサーが出場した。カワサキのデイトナへのチャレンジはその後、この3気筒レーサーに引き継がれることになったのである。

風倶楽部

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