KAWASAKI H1R

カワサキ H1R 

(リード)

高性能スーパースポーツとしてデビューしたマッハⅢをベースとしたレーサーが、はじめて雄姿を現したのは、1969年のデイトナ・スピード・ウィークだった。メインイベントの200マイルレースに出場した3気筒レーサーは、この初陣をイギリス人GPライダー、D・シモンズのライディングで17位で完走したのだった。


(本文)

 順位はともかくとして、この年のデイトナ200マイルレースは、カワサキにとって記念すべきレースとなった。というのも、このレースに参加したKMC系カワサキ・ワークスが、チームカラーとして、はじめてグリーンを採用したのである。グリーンは、欧米では不吉なカラーとして嫌わる色だ。チームカラーという概念も一般的ではなかった当時、マシンはもちろん、ライディングスーツからメカニックのユニフォームまで、すべてがグリーン系で統一されたKMC勢は、当然のごとくサーキットでは注目を集めることになった。(もっとも、今日のライムグリーンとよばれる淡い黄緑よりも、KMCが採用したグリーンは、暗い色合いではあった。)

 主要な輸出先であるアメリカでの呼称から、H1Rと命名された3気筒市販レーサーが一般ユーザーに届けられたのは、翌年の1970年になってからであった。デイトナ・ウィークにタイミングを合わせてデリバリーが急がれたH1Rは、優勝者には多額の報奨金を与えるというカワサキの販売戦略も功を奏して、大挙してフロリダ半島のレースコースに集結することになった。もっとも、この時点でカワサキが準備したH1Rは40台、そのうち15台がアメリカに出荷された、といわれていたから、200マイルレースにエントリーした3気筒レーサーのなかには、ノーマルのH1を改造したものも少なくなかったはずである。

 こうしたH1レーサー・フィーバーは、カワサキの超弩級スーパースポーツのポテンシャルの高さを如実に物語っていた。ポートタイミングが変更され、圧縮比が上げられたH1Rの2サイクル3気筒エンジンには、新たに35φのキャブレターが装着されて、75馬力以上のハイパワーを絞り出していた。そして、当然、排気系にはエキスパンションチャンバーが取り付けられ、左に1本、右に2本とアン・シンメトリックに振り分けられたテールパイプが、3気筒エンジンのパワーを象徴していた。

 また、H1Rの潤滑系はレーシング・ユースに合わせて、スーパールーブ方式の強制給油に加えて、20:1の混合ガソリンが指定されていた 一方、H1Rのフレームは、一見ノーマル風のクレードル・タイプだったが、メイン・トップチューブが市販タイプと異なる専用のフレームが新設計され、3気筒エンジンのハイパワーに対処していた。こうして本格的なレーサーに生まれ変わったH1Rの登場によって、それまでのA7Rとは比較にならない戦力を得たカワサキ勢は、いよいよ快進撃を開始することになったのである。

 緒戦のデイトナでは、200マイルレースこそW・“ジンジャー”・モロイが7位、R・シャーベットが9位に終わったものの、100マイルレースに出場したH1Rは、プライベート・ライダーのR・ブラッドレーによって、ついに悲願のデイトナ初勝利を飾ることになったのである。

 ブラッドレーのH1Rは、その後もAMAナショナル・チャンピオンシップを転戦して、ジュニアクラスでは無敵の強さを発揮、次々と勝ち星を重ねていくことになった。一方、デイトナで使用したH1Rをヨーロッパに持ち帰ったG・モロイは、この市販レーサーで世界GPを転戦することになった。ここでもH1Rはいかんなく実力を発揮して、世界チャンピオンのMVを駆るG・アゴスチーニを相手にデッドヒートを演じたのである。

 絶頂期のMVワークス・レーサーを向こうにまわして、一歩も引けをとらないモロイの活躍に触発されて、その後のGPレースでは多くのH1Rが活躍することになった。1971年になるとKMC内にレーシング・デベロップメント・セクション(RDS)が設置されて、アメリカ国内でのレース活動はチーム・ハンセンに一任されることになった。

 この71年仕様のH1Rは、吸排気系が変更されたのをはじめ、点火系にCDIイグニッションが採用されるなどの改良の結果、実に80馬力以上にパワーアップされ、新たにH1RA(ワークス仕様はH1RAS)と呼ばれることになった。H1RAは、10台がアメリカに運ばれ、ヤマハからチーム・ハンセンに移籍したY・デュハメルを中心に、前年に引き続きカワサキ旋風を巻き起こしたのである。 

 また、ヨーロッパではこの年、マドリードにあるハラマ・サーキットを舞台に開催されたスペインGPに於いて、シモンズのH1RAが貴重な1勝をカワサキにもたらしている。その後、1972年になると、カワサキの主力はH1RAの技術を引き継いだ750㏄クラスの“グリーンモンスター”、H2Rへと移行することになった(初期のH2RはH1RAのフレームを使用していた)。そのため、H1RAの生産は、1971年で終了されることになった。

 しかし、主役の座は譲ったものの、その後もH1RAの熟成は続けられた。そして、1974年には3気筒エンジンは水冷化され、キャストホイールとディスクブレーキを装備したH1RWが登場した。このH1RWは、久々のカワサキ・ワークスとして世界GPを転戦、クラシック・レースの最高峰といわれたマン島TTレースの500㏄クラスで勝利を飾ったのである。こうしたH1Rシリーズのレース活動を通して、極東のモーターサイクル・メーカー、カワサキの名声は世界各地に広まっていったのである。

風倶楽部

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