黄金の60年代…その1.
カミソリのように刹那的なパワーを絞り出した2ストマシンがあった。
そして限りなく力強い逞しい4ストマシンがあった。
決してノスタルジーではない。
60年代は何もかもがガムシャラに突き進んだ時代であった。
'60(昭和35年)
安保騒動に揺れ動き、岩戸景気が到来。国民の足としてモペット時代が始まった…
国会に全学連のデモ隊が突入した…先の東京サミットの厳戒警備を眼の当たりにした今日では、想像もできないようなショッキングなニュースで、日本の60年代の幕は切って落とされた。いわゆる'60年安保騒動である。
大勢の学生や市民の「安保反対」の声も空しく、新安保条約は成立。しかし、時の首相である岸信介は退陣に追い込まれ、変わって…池田勇人内閣が誕生することと成る。この新首相が掲げた対策が「国民所得倍増計画」だった。経済政策に主眼を置いた池田内閣は、10年後の1970年には国民の所得が倍に成る…とブチ上げたのだった。戦後の復興期を脱した日本は、高度成長期と言う新時代に向けて第一歩を踏み出したのである。是非はともかくとして、池田勇人の所得倍増論こそが、60年代の全ての始まりだった。
政府の姿勢を受けて、国内の産業経済は俄に活気づいた。こうした背景のもとに、トヨタの空冷700ccの大衆車「パブリカ」を始め、三菱500やマツダクーペ360と言ったいわゆる国民車が続々とデビュー、マイカー時代スタートする。「家付き、カー付き、婆抜き…」が結婚の条件となり、「交通戦争」なる言葉が流行ったのが、この頃である。
一方、独自に国民の足を模索していた二輪業界も、'60年頃にはひとつの解答を得ていた。'58年5月に発売されたスズモペットSM-1や同年8月にデビューのホンダ・スーパーカブC100が引き金となり、「モペット時代」が始まろうとしていたのだった。
当時あった数多くの二論メーカーも、こぞってモペットの生産に乗り出していた。ブリジストンのチャンピオン、山口自転車のオートペット、田中工業のタスモーペット、昌和自動車のエコーなど、次々に新型モペットが登場する様は今日の大型スクーター戦争を彷彿させるものだった。この過当競争とも言えるような状況は、当然の如く弱小メーカーを淘汰する結果と成った。
'60年代には、スーパーカブがセル付きのC102へと発展。そして、それまで様々なスタイルだったモペット群は、好評のスーパーカブと同様のステップスルー式が主流と成り、スズキのセルペットMA-1やヤマハのMF-1が登場した。
モダーンで気楽に乗れるモペットは、国内ばかりでなく海外でも爆発的な人気を博し、従来の軽量級オートバイのスタイルは一新された。また、この年の二輪車総生産台数が147万台を記録し、初めて生産台数が世界1位となった。この原動力と成ったモペットの人気を無視することはできない。
街角には、ツイストのメロディーが流れ…浅間レーサーからロードスポーツが派生した。
'60年といえば、ちょっとしたモダンジャズのブームが巻き起こっていた。あのアート・ブレーキーがジャズメッセンジャーズと共に来日し、ソウルフルな音楽に日本人の心は奪われた。翌年には名曲「ランブリングローズ」の大ヒットで一躍有名になったナット・キング・コールも来日、ブームは更に加熱して行った。それまで、海外の情報・文化に飢えていた日本人に取って、本場のジャズとの出会いは新鮮なショックであった。
また、モダンジャズがどちらかと言えばアングラ的で一部のマニアに深く浸透したに留まったのに対し、文句無く世界中に席巻したのがツイストだった。チャビー・チェッカーが「ザ・ツイスト」でヒットチャートに登場すると同時に、全米はたちまちツイスト旋風に包まれることと成った。そのツイストブームが日本に上陸するのにさほどの時間は要さなかった。日本でも和製ポップス・シンガーが続々と名乗りを上げ、ツイストはブームと言うよりは若者の文化そのものとなった。当時、若者中心の文化が日本で芽生えるということは、極めて珍しい現象と言えた。'60年代は、若者が自己主張を始めた年でもあったのだ。
オートバイの世界でも、若者を中心とした新しい流れが起き始めていた。ロードスポーツ・ブームである。口火を切ったのは、浅間火山レースや世界GPといった、メーカー中心のレース活動であった。表面的には、二輪のメーカーの技術力向上をうたったレース活動ではあったが、血気盛んな若者を刺激しないはずはなかった。いささか陳腐な表現には成るが、「スピードとスリル」に若者は目覚めた…とは言えないだろうか。
当時は、そうした若者に劣らず、二輪メーカーもまた血気盛んであった。より速く…よりパワフルに…レースで得たノウハウはダイレクトに市販車にフィードバックされ、ロードスポーツと言う新たなカテゴリーが確立されたのは、当然の成り行きでもあった。
日本における本格的なロードスポーツの歴史に先鞭をつけたのは、'59年にデビューしたヤマハのYDS-1(250cc)とホンダのベンリースポーツCB92(125cc)だった。この両車に共通していたのが、「浅間火山レース」を意識しての登場と言う点だった。そのため、レース用部品も多数用意されての発売となった。日本のロードスポーツは、こうしてレースの世界から派生したのだった。
'60年になると、ホンダのドリームCB72(250cc)がデビューし、いよいよロードスポーツ時代は本格化してくる。一方2サイクルの分野でヤマハに追従することと成ったスズキでは、それまで定評のあったコレダ号を矢継ぎ早にモデルチェンジ。ツインエースTA、スーパーツーリングTB(共に250cc)と言ったモデルでブームに対処してきた。
ロードスポーツの主役は、あくまでも250ccクラスであった。しかし、当時の新車価格はどれも18万円前後と言う非常に高価なものであった。大卒のサラリーマンの年収と同等と言われた250ccクラスに対して、5万8千円の価格で発売された小型ロードスポーツ、ホンダのスポーツカブC110(50cc)も、'60年にデビューしている。また、'60年を代表するロードスポーツとして決して忘れることの出来ないのが、ライラック・ランサーマークV MF39だ。300ccVツインの軽快なオートバイは、独特の美しいデザインでファンを魅了したモデルだった。
当時、若い女性を中心に大流行したダッコちゃん人形の底抜けに陽気なウインクは、新生ロードスポーツの明るい前途を暗示しているかのようだった。
ホンダ ドリームスーパースポーツCB72
(リード)
VFRあり、NSRありといった具合に、今日のホンダ製ロードスポーツは百花繚乱、それにともなって、さまざまな形式名称が登場している。だが、“ユーザーの嗜好性の多様化”という錦の御旗の下、こうした傾向が目立ちはじめたのは、国産モーターサイクルの歴史を振りかえれば、つい最近のこと。やはり、ホンダ製ロードスポーツの伝統、そして本流といえば、CB系にとどめを刺す。そのCBの名を、はじめて世に知らしめた名車が、CB72である。
(本文)
正式には『ドリームスーパースポーツCB72』と命名されたモーターサイクルが発表されたのは、1960年のことだった。当時の国内は、戦後初の経済成長期、神武景気の真っただなか。それまで、戦後復興の足として活躍した実用一辺倒のモーターサイクル群のなかにあって、本格的な国産ロードスポーツの誕生は、センセーショナルな出来事であった。当時、ホンダは既に、マン島TTレースをはじめとする世界グランプリに参戦を開始していた。そうしたホンダ・レーシングチームの戦績に一喜一憂していたマニアは、発表されたCB72にGPレーサーのイメージをオーバーラップさせていたのかもしれない。第7回自動車ショーに展示されたCB72のまわりは連日、熱心なマニアに埋めつくされることになった。
実際、CB72の成り立ちは、RC系と呼ばれた当時のGPレーサーを彷彿させるものだった。エンジンは既に市販されていたC系の250 átOHC2気筒をベースに、ツイン・キャブレター化されるなど高度なチューニングが施され、24ps/8000 rpm という最高出力はライバルのヤマハYDS1の20ps/7500 rpmを軽く凌ぐものだった。また、エンジン自体をストレスメンバーとしたパイプ製バックボーンフレーム( 通称ダイヤモンドフレーム)や、テレスコピック・タイプのフロントフォークなど、(基本的な部分ではあるが)CB72には、GPレーサーとの共通点が数多くみられたのである。
発表後も、CB72の熟成は、寸暇を惜しんで進められた。主要マーケットである北米大陸のハイウェイでも、高速走行テストが繰り返された。既成のタイヤではホンダの要求性能を満たせなかったために、まったく新しい製品がタイヤ・メーカーと共同開発されたといえば、当時のCB72の並外れた高性能ぶりが理解されるだろうか。
市販を待ち焦がれるマニアにCB72が届けられたのは、発表の翌年、1961年になってからだった。しかし、長いこと待たされたマニアの期待は、けっして裏切られることはなかった。最高速度、155 áq/h。しかも100 áq/hを越えても、いっこうに鈍らない加速感は、それまでほとんどのマニアが体験したことのない、異次元の世界であった。
実は、この高性能の秘密は、エンジン内部に隠されていた。GPレーサーの技術ともいえる、180 度クランクがCB72には採用されていたのだ。不等間ファイアリングになるため、常識的には2気筒エンジンとの相性が疑問視されそうなクランク位相ではあったが、ホンダはGPレーサーの開発過程で、この型破りなクランクシャフトの特性を熟知していたのである。当時の有名な“トップで80áq/h以下では走れません”という宣伝コピーは、高回転域を最優先した180 度クランクの存在を暗示していた、といったら勘繰りすぎであろうか。ともあれ、当時の道路事情からすれば、CB72は群を抜く高性能ロードスポーツとして市販に移されたわけである。
だが、こうしたレーサーの領域に踏み込んだような高性能を、だれもが享受できたかといえば、答えは知れたようなもの。そこで、ホンダは新たに、等間隔爆発ゆえに低速からスムーズな360 度クランクのエンジンを設定して、平均的な腕前のユーザーの要望に応えることになった。360 度クランクをもつタイプ㈼の誕生である(180度クランクのモデルはタイプ㈵と呼ばれることになる) 。両車は、ポイントカバーに記された文字で識別されたが、実際に乗り比べてみれば、その差は一目瞭然であった。ちなみに、タイプ㈼は、公表出力はタイプ㈵と変わりなかったが、最高速度は145 áq/hにとどまっていた。
一方、CB72はテレスコピック・フォークを採用した初のホンダ製市販車でもあった。このGPレーサー技術のフィードバックによって、前輪71ás、後輪82ás( 空車時) という理想的な重量配分を得たCB72は、それまでのボトムリンクを採用した既成モデルとは一線を画する操安性をも発揮した。つまり、エンジンの高出力ばかりが話題となったCB72だったが、トータル的にみても、極めてバランスのとれたモーターサイクルだったわけである。
こうした卓越した性能ゆえに、CB72はアマチュア・レーサーの格好の素材となった。当時、全国各地で開催された草レースには、( 簡単に脱着できた) セルモーターや保安部品を外し、レース用に供給されたY部品を組み込んだCB72の改造レーサーが大挙して出場して、なみいるライバル車を尻目に好成績を残している。ちなみに、我が国のロードレース界の重鎮、ポップこと吉村秀雄氏の名声を不動のものとしたのも、CB72だった。
結局、CB72は、マイナーチェンジを何度かうけたものの、基本的にはオリジナルのまま、7年という長期に渡って生産され、国内はもちろんのこと、世界中のマニアに愛されたのである。そして今日でも、クラシック・モーターサイクルのイベントには、オリジナル、改造レーサーなど、様々なCB72が姿をみせている。生産終了からおよそ四半世紀を経た今日でも、CB72はエンスージャストの憧れの的なのである。
YDS1
(リード)
富士登山レース、浅間火山レースといった大イベントがメーカー間の技術競争の舞台となって、1950年代の後半になると、我が国のモーターサイクルの性能は飛躍的に向上することになった。戦後の混乱期に雨後の竹の子のごとく誕生した2輪メーカーは、存亡をかけてレースに参加したのだ。こうした熾烈な戦いを経て、技術力をともなわない多くのメーカーは次第に淘汰されることになった。
(本文)
ヤマハも、この次期、社運を賭けてレースに没頭した。1957年10月、第2回浅間火山レースにヤマハは、実用車のYD系を改造した魅力的なレーサーを投入した。YD/A、YD/Bと呼ばれたそのレーサーは、ベースのプレスフレームにかえて、新たに設計されたクレードルフレームが用いられていた。さらに、セパレートにカウリングを装着するなど、その出で立ちは本格的なレーサーにみえた。 この2種類の250 átクラスのレーサーは、それぞれ異なった仕様のエンジンを搭載していた。その違いは、主に両エンジンのボア・ストローク比で、YD/Aは54×54mmのスクエア・タイプ、YD/Bは56×50mmのショートストローク・タイプのエンジンが搭載されていた。ヤマハのエンジニアは、決定的な自信を持てないまま、レース当日を迎えることになったのだ。しかし、レースでは、そんな技術陣の不安をよそに、どちらのタイプも並外れた競争力を発揮して、1位から3位までを独占してしまった。この日、ヤマハは125ccクラスでも圧勝し、レースに強いヤマハをアピールすることになった。
勢いを得たヤマハは、浅間で優勝したYD/Bをベースに、さらにチューニングを施したレーサーを、アメリカのカタリナ島で行われるダート・レースに送り出した。ライダーは、エースの伊藤史朗。伊藤は、トラブルにもめげずにYD/Bを6位でフィニッシュさせた。その後、YD/Bはアメリカ本土のレースを転戦して、アメリカ市場にヤマハの名前を印象づけた。この海外遠征したYD/Bは、後にカタリナ・レーサーと呼ばれることになる。
1959年になると、このカタリナ・レーサーをデ・チューンしたような本格的なロードスポーツ、250Sが発表された。エンジンは、パワーバントが広げられた結果、最高出力は20馬力にダウンしていたが、件のパイプフレームは、カタリナ・レーサーを彷彿させるクレードル・タイプが採用されていた。また、当時のヤマハのデザインを担当していたGKグループの手になるコバルトブルーを基調としたカラーリングは、マニアの度胆をぬく斬新さであった。この250Sは他にも、国産モーターサイクルとしては初の5段ミッションやレーサーゆずりのツインギャブが採用されていた。そして、これらのメカニズムを使いこなすための必需品ともいえる、タコメーターも標準で装備していた。
このロードスポーツが発売されたのは6月のことだったが、8月の浅間火山レースにははやくも、250Sをベースとしたレーサーが登場した。このレースには、昨年の雪辱に燃えるホンダが、市販レーサーともいえるCR71を大量に送り込んできた。対するヤマハは250S用にレーシングキットを用意して、レースにそなえた。
この年のレースは、関西ホンダ・スピードクラブからエントリーした、弱冠18歳の北野元選手が大活躍したことで知られている。250ccクラスでも、北野の駆るCR71が抜群の速さをみせつけ、食い下がるヤマハ勢をおさえて、ホンダに勝利をプレゼントすることになった。しかし、YESと名付けられたボアアップ仕様の250Sが、350ccクラスで優勝したのをはじめ、耐久レースでも、ホンダの4気筒レーサーを相手に善戦して、観客を沸かせた。
優勝こそ逃したが、充分に駿足ぶりをアピールした250Sはレース後、ただちに一般のマニアに向けて市販に移された。この量産タイプの250Sは、浅間の教訓からフレームが補強されてはいたが、その他の部分はレーサーそのものといった出で立ちで、キャブレターやバッテリーがむき出しのスタイルは、プレスフレームが特徴だったヤマハのイメージを一変させるものだった。また、レーシングパーツも同時に市販された250Sは、その後の我が国のレースシーンに欠かせない存在となっていった。浅間火山レースは第3回大会を最後に、その幕を閉じることになった。しかし、その後も浅間の名は、250S改造レーサーに引き継がれることになった。通称“アサマ型”と呼ばれた250Sにキットパーツを組み込んだレーサーは、その後も全国各地で開催されたクラブマン・レースを席巻した。宇都宮やジョンソン基地を舞台に、アサマ型レーサーはCR71やCB72をライバルとして大暴れしたのである。
一方、アップマフラーに改造されてモトクロス用タイヤを履いた250S改造モトクロッサーも、MCFAJ全日本モトクロス大会やMFJモトクロスGPで、大活躍した。1960年代前半、アサマ型レーサーの2サイクル・ツインのエキゾースノートは、日本全国に響きわたったのだ。250Sはその後、3000台を生産した時点で、ヤマハ伝統の呼称にならって250ccを表すDの文字を使う『YDS1』と名称を変更したのである。YDS1は、ピーキーな出力特性のエンジンを素直な車体に搭載した、荒削りなロードスポーツであった。乗り手に腕を要求したYDS1は、それゆえに熱狂的なマニアに支持された。その後、今日に到るまで連綿と続く、ヤマハ伝統の2サイクル・ツインの歴史は、このYDS1によって第一歩が記されたのである。
(次回は…'61年の出来事をまとめてみます。)
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