黄金の'60年代…その3

黄金の'60年代…その3

'62年(昭和37年)

安定した高度成長期で、世界中が静穏…ニ輪メーカー各社は、次々とニューモデルを発表した。

 8月12日23才の堀江謙一氏が独り乗りの外洋ヨット《マーメイド号》で太平洋横断に成功…と言うニュースがアメリカから伝えられた。

 '62年と言えば、一般市民の海外旅行は未だ自由化されていない時代であった。アメリカ大陸は、今より遥かに遠くにあったのだ。パスポートが自由に入手でき、ドルを簡単に買えるようになったのは、2年後の'64年4月からのこと。それだけに、堀江青年の快挙は痛快な話題と成った。

 一方、国内では高度成長政策も順調なすべり出しをみせ、世の中は平穏であった。原油の輸入自由化も実施され、石炭から石油へとエネルギーの転換も確実に図られて行った。歩調を合わせるように、我が国のモータリゼーションは着実に進歩し、この年の10月に運輸省は、全国自動車保有台数が500万台を突破したと発表。また、全日本自動車ショー(現在の東京モーターショーの前身で、入場料は100円)の入場者総数は、この年初めて100万人を越える盛況なものと成った。

 マイカー時代は、着実に現実化しつつあった。この機運を受けて二輪業界は次々とニューモデルを発表することとなる。

 スズキは「コレダ・セルツインSB-2」をモデルチェンジ。'60年に発表して好評だったコレダ・ツーリングTBのスタイルを踏襲したスポーツ車、コレダ・セルツインSK(125cc)を1月から発売。このセルツインSKは、有名な「城北ライダース」の手に委ねられ、スクランブラー仕様に改造されたレーサーは、クラブマンレースで常勝マシンとしてもてはやされて行った。

 また、5月にはセルペット80K10(80cc)が発売。この軽量級のスポーツ車は、50ccのセルペットMDの鋼板プレスフレームに80cc2ストロークエンジンが搭載され、排気量区分的には変則的なクラスも言えるが、50cc並みの価格で125ccクラスの性能が得られると言うことで大人気となっている。このセルペットの影響を受けて中間排気量クラスがブームとなったのは言うまでもない。80K10は、その後'63年に80K11に発展するなど改良が繰り返され、'67年に姿を消すまでに、実に52万台が生産された実力モデルとなった。ホンダの屋台骨を築いたのが「スーパーカブ」だとすれば、今日の隆盛を極めるスズキの礎となったのが、セルペット80K10と言うことに成る。

 対するヤマハでは、国産初の本格的ロードスポーツとしてマニアに愛されたYDS1がマイナーチェンジを受け、YDS2となる。その主な変更点は、すでに定評を得ていた2ストローク並列2気筒エンジンの吸排気系に手が加えられパワーアップ。また、YA5で採用された防水防塵のブレーキも採用されている。これは、その後のドラムブレーキのスタンダードシステムとなっている。

 ホンダからは、ベストセラーのCB72の兄弟車とも言える「ドリームCL72(250cc)」がデビュー。6月から発売が開始されている。アップハンドルの…いわゆるスクランブラーマフラーモデルとしては、CL72が国内初の量産モデルとなったのだ。そして、9月にはCB72の排気量をアップして305ccとしたCB77も登場。また、変わり種としては、今日のファミリーバイクのルーツとも言える「ポートカブC240(50cc)」が7月にデビュー。このC240がスーパーカブをベースに徹底的にシンプル化されたモデルだったのに対し、期を同じくして登場した「ジュノオM85(170cc)」は、水平対抗2気筒のOHVエンジンを搭載。無段油圧変速機を持った革新的なスクーターとして話題をまいたモデルとなった。

 '60年を境に、実用一点張りから脱皮したオートバイだが、2年後の'62年には、はやくも指向の多様化の兆しを見せ始めたのである。

黄金の'60年代…その3(part-2)

「鈴鹿サーキット」がオープン。驚異の市販ロードレーサーが続々とデビュー

 '62年は、世界GPレースで国産レーサーの快進撃が開始された年でもあった。海外レースにいち早く参加したホンダはこの年、GPレースで125/250/350ccの3クラスでメーカーチャンピオンを獲得。マン島TTレースでも125/250cc両クラスで優勝を飾った。

 また、スズキも挑戦3年目にして、TTレースの50ccクラスで優勝。世界GPレースの50ccクラスも制覇する快挙を上げている。ドイツ、フランス、イギリス、ベルギーなどのGPサーキットでの国産レーサーの活躍に、二輪マニアの胸はいやがおうにも高鳴った。

 こうしたモータースポーツファンの熱い眼差しを受けて、日本初の本格的ロード・コース「鈴鹿サーキット」がオープンしたのが同年9月。そして11月には早くも第一回全日本選手権ロードレース大会が開催された。

 ホンダは、系列の鈴鹿サーキットの完成に合わせるように、同年6月に2台の強力な市販レーサーの販売を開始していた。カブレーシングCR110(50cc)とベンリーレーシングCR93(125cc)である。

 両車共に保安部品を取り付ければ、公道走行も可能と言う過激な触れ込みでもあった。が、ギアドライブのDOHC4バルブ・エンジンは明らかにGPレーサーRC系の流れを汲むもので、当時としては驚異の市販モデルとなった。17万円、28万円と言うプライスカードが付けられたCR110/CR93は、当時のアマチュアライダーの垂涎の的であったことは言うまでもない。

また、前出の2車の他にもCRを名乗るレーサー(CR…は、市販レーサーの表記)として、CR72(250cc)、CR77(305cc)も'62年に発表されているが、こちらは市販レーサーと言っても、極限られたメーカー系のチームの手に委ねられることとなった。

 元々、ロードレースに関しては一日の長がある上に、事前の対策の周到さもあって、記念すべき第一回全日本ロードレース大会は、ホンダ勢が50/125/250/350ccの4クラスを制覇。いわば、圧勝と言う形で幕を閉じている。しかし、他メーカーが黙ってこの結果に甘んじるはずも無かった。

 スズキは翌'63年、特異とする軽量クラスにスーパースポーツM40(50cc)とスポーツ125S40(125cc)と呼称された市販ロードレーサーを投入。雪辱戦に打って出ることになる。空冷2ストローク単気筒ピストンバルブ・エンジンをパイプ製ダブルクレードル・フレームに搭載すると言う両車共通のデザインは、実績のある同社の世界GPレーサーを彷彿させるものであった。

 また'61年に、浅間型YDS1改レーサーに取って代わる純ロードレーサーとしてTD1を登場させているヤマハも、TD1の熟成に総力を注いでいた。そして、TD1以降のヤマハのレーサーとして、TD1B/C、TD2/TR2、TD3/TR3、そしてTZ…と絶えること無く栄光の歴史を刻んで行くことと成る。

 '62年は、国際レーシングコースである鈴鹿サーキットが完成したのを期に、国内のロードレーサーの歴史が本格的にスタートした年でもあった。この年、巷では…クレイジーキャッツ主演の「日本無責任時代」が上映され、植木等の歌う「スーダラ節」が大ヒットもしていた。

ドリームスーパースポーツCL72 1962

 CB72の高性能を活かすべく、4サイクルOHC2気筒エンジンをシングルクレードル

のフレームに搭載したストリートスクランブラー仕様。当時としては異彩を放ったデュア

ルアップタイプマフラーの採用をはじめ、アップハンドル、19インチホイールにブロック

タイヤを装着するなど、オフロード走行にも充分に対応。もともと欧米でのエンデューロ

レース用に開発されたということもあり、アメリカ市場で大人気を博した。現在で言うと

ころのデュアルパーパスモデルである。

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ホンダ ドリームレーシングジュニアCR72

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1959年のマン島TTレースへの挑戦を皮切りに、ホンダは全社一丸となって世界選手権シリーズ(GPレース)の制覇を目指した。そして、1961年を境に飛躍的にパワーアップしたホンダのRC系工場レーサー群は、GPレースを舞台に、怒濤の快進撃を開始することになったのである。そして、ホンダはその後、破竹の勢いで次々と勝ち星を重ねていくことになった。そして、1966年にはついに、GPレースの全5クラスを完全制覇するという、空前絶後の偉業を達成したのだった。こうしたRC系GPレーサーの活躍をステップにして、ホンダは世界のトップメーカーへと躍進していったのである。

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 また、一方では、こうしたRC系工場レーサーによるGPレース参戦とは別に、ホンダはクラブマン・レベルのレースにも、積極的な姿勢を貫いていた。古くは浅間火山レースに向けて、C70やCB92にレーシングキットを設定、プライベートライダーのレース参加を支援したこともあった。また、CB72の原型ともいわれた、CR71市販レーサーを駆るホンダ・スピードクラブの面々の活躍には当時、目を見張るものがあった。

 1962年に鈴鹿サーキットが開設されると、こうしたクラブマン・レベルのレースを取り巻く状況は、いっきにエスカレートすることになった。各メーカーは、こぞってロードレース専用の市販レーサーを開発して、国内のレースもいよいよハイスピード時代を迎えることになったのである。

 こうした状況にいち早く対応したホンダは( 仕掛け人でもあった?)、カブレーシングCR110 、ベンリイレーシングCR93といったGPレーサー・レプリカを、矢継ぎ早に市場に投入した。そして、こうしたホンダの市販レーサー・シリーズの第3弾として登場したのが、ドリームレーシングジュニアCR72(250át) とCR77(305 át)であった。ネーミングや排気量設定から想像できるように、この両モデルはスーパースポーツとて爆発的な人気を博したCBシリーズのレーサー仕様といった位置づけだった。だが、実際のCR72/77は、CBとはまったく別物の、本格的な成り立ちのレース専用モデルだったのである。

CR72の特徴的な巨大なDOHCヘッドに注目すると、ペントルーフ型燃焼室を形作る4バルブ方式は、バルブの挟み角が大きな吸気効率を重視したデザインで、当時のRC系GPレーサーの技術がダイレクトにフィードバックされていた。もちろん、バルブの駆動系には他のCR同様に、スパーギアを組み合わせたギアトレーンが採用されていた。また、CR72の場合、54×54áoと56.9×49áoの2種類のボア・ストローク比のエンジンが存在したようだが、いずれにしてもCR72に搭載されたDOHC並列2気筒エンジンは、CBシリーズとは一線を画する、純レーシング・エンジンといえるものだった。このCR72の出力は25馬力と控え目な数値が発表されていたが、イギリスの専門誌のテストでは、実測で41馬力をマークしたといわれている。もちろん、この値はレーシングキットを組み込んだ状態に違いないが、それにしてもCR72は驚くべきポテンシャルを秘めた市販レーサーであったわけである。こうしたレーシングキットでチューニングされた並列2気筒エンジンは、10000 回転以上という未曾有の高回転域で真価を発揮した。この時、CR72のメガホン・タイプの排気管から弾けるエキゾースノートは、マン島をはじめとする世界のサーキットを駆け巡った、RC系GPレーサーを彷彿させる凄まじさで、マニアの度胆を抜いたのである。

 このCR72にはタイプ㈵型と㈼型があったが、外観上の相違点は、ステアリングヘッドから伸びたダウンチューブによって識別できた。㈵型はCBシリーズ同様にダウンチューブでエンジンを吊り下げる形状だったのに対して、強化型ともいえる㈼型では、ダウンチューブがクランクケースを直接支持していた。こうしたフレームワークに関してみれば、㈵型にはCBの面影が残されていた、ということもできそうである。

 CR72は当初、他のCRシリーズ同様に、保安部品を装備した公道走行が可能なスーパースポーツとして計画されていた。実際、保安部品を纏ったロードゴーイング・モデルの写真も残されている。しかし、あまりにも強力な動力性能だったためか、CR72は市販時にはクラブマンレース用の純レーサーとして登場したという経緯があった。CR72は、こうしてごく限られたプライベート・チームを対象に限定販売されたために、1962年から63年にかけて、僅かに54台が生産されただけ、といわれている。一方、CR77に至っては14台の生産が確認されているにすぎない。それだけに今日、CR72/77は非常に貴重なコレクターズアイテムとなっている。幻の市販レーサー、CR72/77には、世界に向けて飛翔した栄光のRC系GPレーサーの血統が、随所に色濃く受け継がれていた。CR72/77は、1960年代初頭に登場したCRシリーズの頂点に君臨した、ホンダ最強の市販レーサーだったのである。

M40

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1963年に晴海で開催された恒例のモーターショーに於いて、スズキは数台のGPレーサーとともに、1台の小さなスーパースポーツ・モデルを発表した。M40と名付けられたそのモーターサイクルは、ショーの前年に世界GPの50ccクラスを制覇した同社のワークスレーサー、RM62を彷彿させる成り立ちで、会場に詰めかけたマニアの熱い視線を浴びることになった。

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 ホンダに遅れること1年、1960年にスズキの海外レースへのチャレンジは開始された。1953年に発売されたパワーフリー号以来、スズキは長年にわたって2サイクル技術を蓄積していた。こうしたノウハウを駆使して、ピストンバルブの2気筒エンジン(125 át) を搭載した、RT60型GPレーサーが開発されたのである。そして、スズキは大胆にも、世界最大のクラシック・レースとして知られるマン島TTレースを、完成間もないRT60のデビューの舞台に選んだのだった。しかし、世界のトップメーカーが凌ぎを削るTTレースに初参加したスズキの自信は、脆くも崩れ去ることになった。世界の強豪を相手に、RT60は、15、16位で完走を果たしてブロンズ・レプリカを受賞したが、スズキにとってこの順位は、けっして満足できるものではなかった。

 翌1961年も、スズキにとっては不本意なシーズンとなった。この年からマン島TTレース以外のGPレースにも参戦を開始したスズキだったが、ピークパワーを追求するあまり肝心のエンジンにトラブルが続出して、小所帯のスズキのGPチームはシーズン半ばで撤退を余儀なくされたのである。だが、トラブルシューティングに追われる傍ら、スズキの技術陣は必死で勝てるマシンの開発を急いでいた。

 こうしたスズキの努力は、1962年に突如として開花することになった。そのきっかけとなったのが、軽量クラスの名手として知られていたGPライダー、エルンスト・デグナーの加入であった。旧東ドイツの名門メーカー、MZのエースライダーとして活躍していたデグナーは、1961年のシーズンオフに亡命という非常手段をとって、スズキ陣営に加わったのである。この亡命を手助けしたといわれるスズキの冒険は、それだけの価値が充分にあったといえるだろう。デグナーの加入によって、ロータリーディスクバルブやエクスパンションチャンバーといった、2サイクルの最新技術をもたらされたスズキの技術陣は、驚くほど短期間のうちに、翌シーズン用の強力なGPレーサーを開発することができた、といわれている。

 1962年、スズキは、125ccクラスと250ccクラスに加えて、新たに設けられた50ccクラスにもフルエントリーすることになった。そしてシーズンが開幕すると、新設された50ccクラスに於いて、RM62を駆るデグナーが、破竹の快進撃を開始したのである。スズキのRM62はこのシーズン、TTレース優勝、シリーズタイトル獲得という二重の栄誉に輝くことになったのである。このRM62の成功によって、自らの2サイクル・テクノロジーを確立したスズキは、その後、世界GPの軽量クラスの王者として君臨することになったのである。

 1963年のモーターショーで発表されたM40は、こうしたGPレーサーの最先端技術をフィードバックしたスーパースポーツだった。外観こそ、保安部品を装備したロードゴーイング仕様だったが、同時に発表されたレーシングキットを組み込めば、M40はRM62型GPレーサーに匹敵するパフォーマンスを発揮する超高性能モデルでもあった。また、M40のフレームには、GPレーサーと共通のダブルクレードル・タイプが奢られていた。そうした意味では、発表されたM40はスーパースポーツというよりも、市販レーサーといっても過言ではないほどのポテンシャルを秘めていたわけである。

 1962年に鈴鹿サーキットがオープンして以来、我が国にも急速にモータースポーツが普及することになった。それに呼応してこの時期、ホンダからはカブレーシングCR110 、トーハツからはランペットCRといった市販レーサーが相次いで登場していた。こうした本格的な市販レーサーを前にして、スズキはセルペットMDを改造して対抗していたが、誰の目にも非力感は明白となっていた。M40の発表には、こうした苦しい状況の打開、という期待も込められていた。

公表されたスペックを見る限り、M40の最高出力は6.5 馬力と、CR110 の7.0 馬力やランペットCRの6.8 馬力より僅かに低かった。しかし、実際には、レーシングキットとして用意されていたGPレーサーと同じ形状のエキスパンションチャンバーを装着すれば、M40のピークパワーは10馬力に届くといわれるほど強力だった。市販されたM40の多くは、こうしたレーシングキットを組み込んで、レーサーやモトクロッサーとして各地のクラブマンレースで大活躍することになった。また、M40の派生モデルとしては、レーシングキットを初めから装備したカウリング付きのM41がごく小数生産されて、海外に輸出された。そして、国内向けにはその後、市販レーサーとしてTR50が登場したのである。

 50ccクラスが平均して5万円前後で買えた時代、M40の15万円という価格は、けっしてリーズナブルとはいい難かったはずである。しかし、用途の限定された市販レーサーとしてではなく、あえてロードスポーツとして発売されたM40からは、世界選手権を制覇したスズキの、2サイクルメーカーの旗手としての自負が見て取れた。

TD1

(リード)

創業以来、順調に業績を伸ばしてきたヤマハ発動機だったが、1961年に発売したスクーターやモペットといった商品の相次ぐトラブルによって、一転して深刻な経営危機に陥ることになった。そこで、ヤマハは再建に向けて、販売網の整備をはかる一方、技術陣の立て直しを急ぐ必要に迫られた。

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ヤマハの首脳陣はこの苦境に際して、「レースで培われたヤマハの技術を、いま一度、レース界に復帰させ、技術陣に目標とチャレンジ精神を植えつけることが、(自信を喪失している)技術陣の立て直しになる」と考えた。こうした事実上のレース復帰宣言を受けて、ヤマハは全社一丸となって、中断していたレーサーの開発を再開したのである。復帰の目標とされたレースは、11月に開催される

第1回全日本ロードレース選手権。すなわち、ライバルのホンダが建設した鈴鹿サーキットのオープニング・レースを、大胆にもターゲットに選んだわけである。時は、すでに6月の終わり。レース復帰は、4か月後に迫っていた。レーサーの開発にあたっては、前年のUSグランプリに出場した250ccクラスのマシンがベースとなった。このマシンは、有名なカタリナ・レーサーの発展型で、YDS系の2サイクル・ツインを搭載していた。こうした開発過程では、プロトタイプともいえるマシンが、8月の雁ノ巣のレースに出場して、ポテンシャルを確認したこともあった。結局、このレースでヤマハ勢は、1位〜3位までを独占することになり、開発スタッフは確信を持って作業を続行することになった。完成したヤマハの新レーサーは、同年10月に開催されたモーターショーで発表された。 シンプルなピストンバルブの2サイクル・ツインを鋼管ダブルクレードル・フレームに搭載した、このマシンがヤマハ初の市販レーサーとなったTD1であった。

発表直後のTD1は、目標とされた第1回全日本ロードレース大会のノービス250ccクラスに出場した。そして、雨の決勝レースでは、軽量なTD1はホンダCR72を相手に善戦して、ワン・ツウ・フィニッシュを決めたのである。また、ノービス350ccクラスでも、1mmボアアップした排気量255ccのTE1が優勝を飾り、ヤマハはレースに完全復活を果たしたのだった。TD1の市販は、正式には12月からであったが、この鈴鹿用に15台が用意されたといわれている。

好調なスタートを切ったTD1だったが、その後は、レギュレーションの関係で国内レースへの参加の道は閉ざされることになり、わずかに地方のクラブマンレース(MCFAJ主催)、顔を出すにとどまった。しかし、海外では、高性能な市販レーサーとして、TD1は大人気となったのである。

TD1には、厳密に区別すると、TD1とTD1Aが存在した。両車は、TD1はモーターショーでも展示された保安部品を装備した公道走行仕様で、TD1Aは、それにオプションパーツを組み込んだレース専用仕様という点で区別できた。もっとも、TD1もそのほとんどが、オプションパーツを組み込んで、TD1A仕様に改造されてレースに使われていた。ちなみに、TD1の22馬力に対して、チューニングパーツを組み込んだTD1Aは35馬力にパワーアップされていた。

TD1のエンジンは、市販モデルのYDS2をベースに製作されていた。とはいうものの、共用できたのはクランクケースくらいのもので、シリンダーには当時の最新技術だったポーラスメッキを施したアルミ合金シリンダーが用いられていた。もちろん、ポートの形状や燃焼室の形状は変更され、ピストンリングはパーカーライジング処理された1本リングが採用され、メカニカルロスの低減がはかられていた。また、ミッションはYDS2と同様に5速だったが、TD1Aでは当然、ギア比はクロスレシオに変更されていた。

だが、シフト機構は基本的にYDS系のものが流用されていたため、やはりYDS系を加工したクランクシャフトとともに、TD1の数少ない弱点となっていた。また、キャブレターのフロート部分もクランクケースにラバーを介して取り付けられていたため、振動に起因する泡立ちによって、不調をきたすことがあった。こうした箇所は、設計や材質の変更などによってその後、改善されることになったが、根本的な対策は、1964年に登場したTD1Bまで持ち越されることになった。 TD1Bは、ベースとなる市販モデルがオートルーブ付きのYDS3に発展したのにともなって登場した、TD1Aの発展型といえた。TD1Bでは、弱点だったクランクシャフトの耐久性が大幅にアップされていた。また、後年、市販車に採用される5ポートの原型ともいえる通称“ミミズポート”がシリンダーウォールに設けられ、ハイフロータイプのピストンが採用された結果、中速域のトルク特性が著しく向上していた。

このTD1Bは輸出専用モデルで、引き続きアメリカはもちろんのこと、ヨーロッパのGPレースにも出場して、ワークス・レーサーを相手に善戦することになった。しかし、ホモロゲーションの関係からTD1同様、国内に活躍の場が得られなかったTD1Bは、エンジンのみをYDS3改造レーサーに搭載して、第3回、および第4回日本グランプリのジュニア・クラスを制したこともあった。 その後、やはりベースモデルがDS5Eに発展したのに合わせて、マイナーチェンジされたTD1Cが登場した。このTD1Cの最大の特徴は、クラッチがクランクシャフト直結からミッションのメインシャフトに移された点で、残された唯一の弱点を改良されたTD1Cは、250ccクラス最強の市販レーサーとして、各国のレースを席巻したのである。

風倶楽部

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