黄金の'60年代…その4

黄金の'60年代…その4

'63年(昭和38年)

オートバイによるツーリング指向が芽生え

国際格式のレースが鈴鹿で開催された。

 数年前から兆しが見え始めていた「レジャー・ブーム」が、さらにエスカレート。「バカンス」と言う言葉が流行語になる。庶民の夢はレジャーより、さらに大型の夢を求め始めていた。

 しかし、現実には、池田内閣の言う所得倍増論がもたらしたものは、物価の上昇であった。月給は増えたが、物価は更に上がり、実質的な所得倍増の夢にはイエローランプが灯り始めていたのだ。ともあれ、V/A/C/A…と歌うコニー・フランシスの『バケーション』のメロディーに日本人の心は浮き足立った。

 こうしたレジャー指向は、確立したばかりのロードスポーツと言うジャンルからツーリングモデルなるものを誕生させていた。ヤマハは、新しいスポーツモデルの需要に応えるために、シャープさよりも粘り強さを追求したYAT-1(125cc)/YDT-1(250cc)を発売。全く新しいカテゴリーのモデルが誕生したのだ。両車は、ロードスポーツと実用車の中間に位置づけされていた。当時、流行の兆しを見せ始めていたツーリングは、余暇を利用したもので、モトクロス、ロードレースに次ぐ第三のオートバイによるスポーツとも考えられていたのだ。

 また、当時人気の中間排気量クラスには、ジュニアYG1(75cc)がデビュー。軽量な車体にロータリーバルブ採用のハイパワーエンジンを組み合わせることによって生み出されたその軽快感が一躍人気の的に成った。YG1はまた、通産省のグッドデザイン賞を獲得するほどスタイリッシュで、その後多くのバリエーションモデルを派生し、世界的にも大人気と成りロングセラーモデルとして支持され続けていた。

 ヤマハと並ぶ2ストロークの雄、スズキからは、初の50ccロードスポーツとしてスポーツ50M-12(50cc)、それとスポーツ80K-11(80cc)が相次いで発売。当時、世界GPの50ccクラスでは無敵を誇っていたスズキの軽量ロードスポーツとあって、マニアはスポーツ50M-12に注目。優れたパフォーマンスは決して期待を裏切ることは無かった。

 スズキと共に、世界GPでは快進撃を続けていたホンダは、この年に4輪メーカーとしての第一歩を踏み出していた。先ず先鞭を切って発売されたのが軽トラックのT360。次いで10月にはオープン2シーターのS500が発売された。この両車は共にDOHC4気筒と言う高性能エンジンが搭載され、二輪メーカーが4輪の生産に打って出るには大げさとも言える大々的な技術表現を施していた。後に、S600/S800…と排気量の拡大を図って行ったこのオープン2シーターは、国産唯一のツインカム車としてマニアの憧れの的として君臨し続けていた。

 この年のホンダは、4輪に力を注いでいたせいか2輪には目立ったニューモデルは無く、ドリームC78/C200…そして白バイ用にCP77が発売されたに止まった。国内の状況は、名神高速道路の栗東〜尼崎間が開通し、高速道路に脚光が注がれた年と成った。また、我が国初の国際格式の4輪レース『第一回日本GP』、オートバイGPレースが立て続けに開催される等、日本のモータースポーツにとってもエポックメイキングな年と成った。

 一方、世界に眼を向けると、アメリカ合衆国大統領J.F.ケネディーがテキサス州ダラスで銃殺されると言うショッキングなニュースが世界中を駆け巡った年でもあった。

風倶楽部

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