黄金の'60年代…その9(最終回)

黄金の'60年代…その9

'69年(昭和44年)

アームストロング船長が月面に足跡を残し

各社の超ド級マシンが覇を競い合った。

 前年から続いた学園紛争は更にエスカレートし、新年早々には『東京大学・安田講堂』に機動隊が突入。この模様は逐一TV放送され、一般家庭の茶の間でも学生運動が話題と成った。

 また、新宿西口地下広場には『フォークゲリラ』なる若者のグループが多数出没。ベトナム反戦運動の機運は一段と高まりを見せ始めていた。

 すでに市民生活に絶大な力を持っていたTVからは、雨後のタケノコの如くポップワードが生まれ、『あっと驚くタメゴロー』『はっぱふみふみ』『にゃろめ』と言った流行語が次々と飛び出して来た。

 この年、ホンダからはまさしく…あっと驚くようなモデルがデビューした。栄光のRC系GPレーサーを彷彿とさせるような並列4気筒エンジンを搭載した『ドリームCB750』である。CB750は、何もかもが初物づくしであった。マルチシリンダーが市販車としては世界初なら、750ccと言う大排気量も国産としては初のことであった。左右2本出しに振り分けられたマフラー、前輪に輝くディスクプレート。CB750はどこをとってもセンセーショナルなアイテムに飾られたモーターサイクルだった。日本の二輪史上で最も驚きをもって迎えられたロードスポーツモデルだったのである。CB750の発売がきっかけとなって、いわゆる『ナナハンブーム』が到来することとなった。

 あまりにもCB750のデビューが衝撃的であったために、ともすればかすみがちであった興味深いニューモデルが同じくホンダから発売されていた。レジャーバイクの先駆けと成った『ダックスホンダST50/70』『リトルホンダPC50』と言った愛すべき小型バイクが、この年に市販が開始されている。また、4ストロークのトレールモデルとして後にシリーズ化されるSL系の先陣を切ったが、『ベンリーSL90』だった。そしてまた、空冷4気筒エンジン(4キャブレターの1300Sもあった。)を搭載した小型セダン『ホンダ1300』も発表された年でもあった。

 ヤマハからは、5段負荷調整式のリアクッションを持ったトレール車『125AT1(125cc)』がデビュー。さらに、フラッシャーの消し忘れ防止のためのオーディオパイロットを装備したメイトV5AD(50cc)の発売もこの年に開始された。

 さて、スズキはと言うと、トレール車『ハスラー250』を市販。世界モトクロスGPで実績のあるスズキだけに当時としては最高の性能を誇っていた。また、T350(350cc)もデビュー。ロードスポーツのラインナップも充実したモノと成った。

 一方、カワサキは前年に登場したマッハⅢのレース仕様とも言える市販レーサーH1Rを100台限定生産し、世界中のサーキットに送り出している。ロードスポーツの分野では後発メーカーであったカワサキだが、A1RやH1Rのレーサーの活躍は、カワサキの実用車メーカーと言うイメージを一掃してさらに有り余るものとなった。A1やH1と言った超高性能ロードスポーツ車で実績を積み重ねたカワサキは、押しも押されぬロードスポーツモデルのメーカーとしての地位を築き上げることとなった。

 海外では『ウッドストック』でのロックフェスティバルに50万人を超す人々が集まった。そして宇宙では、アポロ11号で人類は月面を踏みしめた。60年代は、人々が熱き心をまだ失ってはいない時代だった。科学が止まることを知らぬように進歩を続け、全ての面でエキサイティングな時代だったのである。(最終回)

ホンダ ドリームCB750

(リード)

ホンダ初の大型モーターサイクルとしてアメリカ市場に投入されたCB450 が、充分な魅力を持ちながら、販売面では決定打とはなり得なかった理由は、欧米人とホンダの考えるビッグ・バイク像に、少なからず隔たりがあったためといわれている。そこで、ホンダは徹底したマーケット・リサーチによって、アメリカ市場が求める大型モーターサイクル像を分析することから、第2弾の計画をスタートさせた。そして、アメリカ・ホンダの現地スタッフの強い要望をいれて、次期大型モデルはレーサータイプがいい、という結論に達したのである。

(本文)

 ホンダは当時、世界GPで5種目完全制覇という偉業を達成したばかりで、GPレーサーのイメージを追求した大型ロードスポーツこそ、市場へのインパクトが強いだろうと、アメリカ・サイドは確信していた。排気量は当時、主流になりつつあった750 át。さらに、GPレースで圧倒的なパワーを背景に世界の頂点を極めた実績をストレートに表現するため、シリンダーのレイアウトはインライン4に決定されたのだった。

 この提案に対して、ホンダの本社サイドもまったく異議はなかった。というのも、750átのインライン4エンジンは、既に朝霞研究所において先行開発されていたのである。最終的なGOサインを得た開発スタッフは、ほどなく4キャブレター、4本マフラーというレーシーなイメージの4気筒エンジンの試作にとりかかった。そして、それと並行するように、車体関係の開発も急ピッチで進められていった。

 そして、1968年10月の東京モーターショーに於いて、750 át並列4気筒エンジンをダブルクレードル・フレームに搭載した大型モーターサイクル、『ドリームCB750 Four』は公開されたのである。未曾有のモーターサイクルが出現したという衝撃的なニュースは、またたく間に世界中をかけ巡った。GPレーサーを彷彿させるマルチシリンダー・エンジンを誇示したホンダの大型モーターサイクルは、空前の迫力をもってみる者を圧倒したのである。

 CB750 は、テスト段階からモンスターぶりを発揮した。まず、既成のタイヤではCB750 のパワーを受け止められないために、トレッド面の剥離が多発した。そのため、タイヤメーカーは急遽、大パワーに耐えうる専用タイヤを開発することになった。また、国産メーカーのチェーンは750 átのパワーに対応できず、テストはチェーン切れのため度々、中断されたといわれている。それほどまでに、750 átインライン4のパワーは強烈だったわけだ。しかしその後、公表されたスペックをみると、CB750 の最大出力は67ps/8000rpm と意外と控え目であった( それでも文句なく世界一だったが) 。もっとも、試作段階では、もっとパワーが出ていたともいわれているのだが、むしろ、このエピソードから窺い知れるのは、CB450 の経験が生かされたのか、CB750 ではピークパワー重視型から中速域重視型へと、セットアップの方向へ変化していることである。このような出力特性の変更こそが、CB450 に唯一欠けていたといわれる“大排気量のゆとり”に対する、ホンダの回答だったのかもしれない。そうした事実を裏付けるように、CB750 の並列4気筒エンジンはレイアウトの斬新さとは裏腹に、常識的なプレーンベアリングをはじめて採用するなど、手堅いまとまりをみせていた。

 1969年 4月、CB750 はまず、アメリカで発売された。当然のごとく、海外でも驚きの目をもって迎えられたCB750 は、専門誌のロードテストでも驚異的なパフォーマンスを発揮し、高い評価を得た。いわゆる“ナナハン”ブームは、こうしてアメリカ市場を震源に、世界各地に広まっていったわけである。アメリカ大陸のハイウェイを、CB750 は、SS1/4マイル12.6秒、最高速度200 áq/hという圧倒的なスピードで駆け抜けたのだ。また、量産車としてははじめて採用されたディスク・ブレーキも、動力性能に見合ったストッピングパワーを発揮した。車重218 ásとけっして軽量とはいえなかったCB750 だったが、そのライディング感覚は軽快とさえ、評価されたのである。もちろん、ホンダの製品に相応しく、CB750 は高品質に裏付けられた絶大な信頼性も備えていた。

 発売を開始するやいなや、アメリカのホンダ系ディーラーには、待ち兼ねたマニアからの注文が殺到した、という。バックオーダーの数は日毎に増え続けた。その数は、ホンダの予想を遙かに上回った。当初、ホンダでは、CB750 の需要がこれほどまで多いとは考えていなかった、。そのため、量産の立ち上がりでは、クランクケースなどの主要パーツは、生産性を無視した砂型が用いられていた。ところが、年間6000台程度を目論んでいたホンダの計算は、見事に外れてしまい、ひと月の間に2000台を超える注文が、ディーラーに舞い込んだのである。そのため、ホンダは急遽、金型をおこして、ダイキャストのクランクケースで量産体制を整えなければならなかった。

 国内での発売が遅れた理由は、こうした事情もあったのだ。待つこと4か月、同年8月になって、CB750 は、やっと国内販売を開始することになった。そしてCB750 は我が国においても、社会現象とまでいわれた“ナナハン”ブームを巻き起こすことになったのである。1969年に発売され、世界中に衝撃を与えた初期型のCB750 は、ホンダのロードスポーツの例にならってK0と呼ばれた。その後、SOHCヘッドのCB750 シリーズは、10年という長期に渡って、ホンダのフラッグシップとして君臨し続けたのだ。

KAWASAKI 500SS MachIII 1969y

(リード)

「マッハ」は、30年を経ても多くの伝説的な逸話で語り継がれている名車である。今でこそ、180km/hが250ccクラスでも常識的な最高スピードのレベルとなってしまった。が、この当時、0→400mを12秒4で走りきるなんて気が狂ったとしか思えないことだった。タイヤでさえも200km/hに対応したものは無く、急遽開発を行うなど、すべてが未知数の領域への冒険的な出来事でもあった。それは又、海外進出を目指す等、企業の躍進を担った商品価値の探求が挑戦的な熱意で行われていた頃であり、時代背景を浮き彫りにしたエポック・メイキングな意味合いさえも伺い知ることができる貴重な存在でもあった。

(本文)

 スピードが、未だ規制を必要としなかった頃、ライダー達は無制限にスピードへの探求心を燃やしていた。ブレーキは、停車させるものではなく、あくまでスピードをコントロール・ダウンするだけの機能部品としか求めてはいなかった。危険な考えと言われるかも知れない。が、モーターサイクルに魅了させられたからには、危険を承知での覚悟も必要とさえ思っていた。最高速度は、マシンが生み出すものではなく、ライダーの資質によって生み出されるものと信じていたし、マシンは、あくまでも可能性をもった道具であり、使いこなすライダーがそれを高めていけるものとした解釈が一部にはあった。

 「マッハ」に、現在にも通用する出力レベルを求めるとするなら、それは無謀である。実用的な範囲での出力特性は信頼のレベルとは言い難く、市街地を通勤や通学の足程度に使用するには不向きであるとしか言い様はない。気むずかしいキャブレターのセッティングを疎かにすると、まるで走ろうとはしない。スクーターにも劣る出足を味あわさせられる。軽々としたフロントサスペンションは、直進性を重点的にセッティングしたかのようで、コーナーリングで攻め込む気にはなれない。では、何故「マッハ」がいつの時代もヒーローで居続けることができたのだろうか。それは、2サイクルが2サイクルらしさを実直に表現できていたからにすぎない。

 世界的にも、大型車は4サイクルを主流としていた。カワサキ社内においても、それは当然のこととした考えもあった。だからこそ、メグロを必要ともした。しかし、技術革新に通例は求めず、不可能を可能とすることから学ぶべきことも多いと判断。500ccで750ccクラスの重量車のパワーを稼ぎ出すには、2サイクルは格好のエンジン・システムだった。当時、世界最速の量産型モーターサイクルは・・と言えば、200km/hを上限としたノートン・コマンド[OHV・745cc・60ps/6,700rpm・188kg/BSAスピットファイア(OHV・654cc・55ps/7,000rpm・173kg)]。

 1969年8月にホンダCB750four(0HC・736cc・67ps/8,000rpm・21 8kg)がこれを打ち破った訳だ。が、1968年9月に生産を始めていた白タンクの「マッハ」が、既にヨーロッパ市場にサンプル輸出されており、リッター辺り120ps(498cc・60ps/7, 500rpm・174kg)を発生する驚異的なデーターには、CB750fourのスペックからは伺い知れない実感を体感させられていた訳だ。まるで、レーシングマシンの様な・・そんな実感がライダー達を興奮の渦中に巻き込んでしまった。立ち上がりでCBに遅れがちにはなるものの、一気に爆発的な加速態勢で追いつく様は、「マッハ」ならではの情景を作り出していた。

 後方に紫煙のスクリーンをまき散らし、フロントを3速に至ってもリフトアップした姿は、「マッハ乗り」ならではの快感を伴ったものだった。空冷トリプル・シリンダーの作り上げたものは、決して優等生の為の模範とはならなかった。しかし、「マッハ」の幻影を記憶に甦させるに連れ、個性的なパワーフィールが色濃く映し出されていく。1980年、KH400/KH250が10年以上にも渡るトリプル・シリンダーの歴史に幕を下ろすまで、「マッハ・スピリット」は脈々と受け継がれていった。穏やかに操られていったスペックは、見せかけの良心だったのかも知れない。

500SS MachIII 1970y白タンク、黒(パールグレー)タンクに続く3作目。国内仕様としては2代目となる。発売は’70年6月。カラーリングを赤に変えての登場。リーク防止対策として、ディストリビュータ・カバー形状を変更するなど、信頼性を高めている。この年には、市販レーサーのH1Rもリリース。制作されたのは40台。そのうちアメリカへ15台が振り分けられ全て完売している。世界GPでも活躍するほどのポテンシャルを持ち、プライベーターの多くは、このマシンを入手できず、H1をチューニングしてのレース参加となった。この年の9月に発売された後期型で、タンクリブは廃止される。(20w×14L)

風倶楽部

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