黄金の'60年代…その8

黄金の'60年代…その8

'68年(昭和43年)

ゲバ棒を武器に大学紛争の火の手が上がり

大排気量のロードスポーツが続々と登場した。

 『明治百年』『昭和元禄』と、世の中は多少浮かれ気味であった。大きいことはいいことだ…と妙に威勢の良いコマーシャルソングが連日うるさいほど繰り返しながされていた。

 一方、学園紛争の火種が一気に拡大し始めたのもこの年で、キャンパスは徐々に荒廃の道を歩み始めていた。大学紛争のシンボルとして脚光を浴びた『ゲバ棒』が流行語となり、「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」と言った名文句が一世を風靡することとなった。

 二輪部門では、久しくなりを潜めていた感の強いホンダがこの年、ロングセラーモデルとなっていたCB72/77、CL72/77に取って代わるモデルとして、ドリームCB250/350、CL250/350を一斉に新発売。ロードスポーツの中心機種の世代交代が行われた。また、同じくロングセラーのスーパーカブC50の派生モデルとして、ハンターカブCT50(50cc)も登場。CT50には、副変速機が取り付けられ、3×2の6速ミッションを得たことにより、前身のC100系のハンターカブと比較して走破性は格段に向上。海外でも高い評価を得ることと成った。

 また、ホンダ同様、スズキは前年コレダS30/S31の後継モデルとなるT125(125cc)の発表だけに止まり、過激化する2ストロークの開発競争を静観。そしてこの年に満を持したようにニューモデルを投入して来た。2ストロークのロードスポーツとしては前代未聞の大型モデルT500(500cc)である。従来350ccがリミットと言われ続けた2ストロークエンジンだが、この常識を打ち破って登場したT500は、マニアの心に強烈なインパクトを与えた。

 ロードレーサーTR500タイタンのベースとなったT500が、エンジン面でのエポックを築いたマシンとすれば、秋の第15回東京モーターショーに展示されたT90/125は、デザイン面で画期的なモデルであった。狼が獲物を求めて疾走するイメージしてデザインされたと言うウルフは、極めてシャープなスタイリングで従来からのオートバイデザインに一石を投じたモデルであったとも言える。

 スズキはこの年、Vボーンと呼ばれたプレスバックボーン・フレームを持つAS50(50cc)も登場している。ロードスポーツのAS50には、アップハンドルが与えられたAC50や90ccクラスのバリエーションモデルも存在した。

 前年、対決姿勢をみせたヤマハとカワサキは、それぞれ新しいカテゴリーのモデルを発表して来た。

 ヤマハは、トレールバイクの決定版とも言えるDT-1(250cc)を発売。DT-1の登場を機に世界中にトレールバイクのブームが巻き起こったほど影響力をもったバイクだった。

 一方のカワサキは、ロードスポーツモデルに更なる精鋭化を図り、後に様々な伝説を生むことと成った超ド級のスーパースポーツH1(500cc:国内名はマッハⅢ)の販売を開始。3気筒500ccのじゃじゃ馬がいよいよ世界を駆け始めたのだ。

 一方、軽量ロードスポーツにも力が注がれ、GAシリーズが登場。ドカルボンリアサスを持つ4速ミッション仕様がGA-1(90cc:国内名は90-S)、5速ミッション仕様がGA-2(国内名は90-SS)と呼ばれた。また、GA-2のストリートスクランブラー仕様も用意され、こちらはGA-3(国内名は90-SSS)と呼ばれていた。もともと、モトクロス部門を得意としていたカワサキは、ブッシュワーカー(F3)、サイドワインダー(F4:国内名は250-TR)、ブッシュマスター(G3TR)と言ったアメリカ市場を意識したオフロードモデルを、この年に続々と発表している。

 また、カワサキの重量級4ストロークモデルW-1は、W2TTへと発展し、アメリカでは『コマンダー』と呼ばれてBSAやトライアンフと同等以上の勝負を展開していた。

 ニューモデルラッシュの年と言える'68年は、ある意味ではオートバイが主役と成った『三億円事件』の発生で幕を閉じた。


T500

(リード)

T20でアメリカ市場に参入以降、USスズキでは、トレール・モデルが好調に売れ行きを伸ばしていた。しかし、一方では大排気量モデルの需要が、確実に高まりつつあった。国内メーカーも、ホンダがCB450 、カワサキがW1といった具合に、大型モーターサイクルの生産を開始、アメリカ市場の大型モーターサイクル・ブームはいっきに加速されることになった。

(本文)

 こうした市場のニーズをはやくから察知していたUSスズキでは、繰り返し、大排気量車の必要性を本社サイドに訴えていた。しかし、2サイクル・メーカーを自認するスズキにとって、大型モーターサイクルの開発は、多くの難問をはらんでいた。というのも、一般には当時、2サイクルは350ccが限界と信じられていたのである。吸入行程で混合気の気化熱による冷却が期待できない2サイクルの場合、大排気量化はすなわち、シリンダー温度の上昇を意味していたのだ。過去には、ツンダップやエムロといったメーカーから、数例の500ccの2サイクル・エンジンが発表されたことはあった。しかし、そのどれもが熱の問題をクリアできずに開発半ばにして挫折していた。しかし、スズキはあえて、500cc2サイクル・ツインの開発を決断した。これは、2サイクルのトップメーカー、スズキのプライドをかけた挑戦だった。

 設立間もない技術センターの2輪設計室では、若手の技術者たちが中心となって、未知の領域への挑戦を開始していた。だが、未曾有の大型2サイクル・エンジンの設計では、当然のごとく多くの壁に直面することになった。問題はやはり、シリンダー内のクーリングにあった。エンジンの異常振動、スリーブの引っ掻き傷など、シリンダー温度の上昇にともなう様々なトラブルが発生して、技術陣を悩ませた。しかし、こうしたトラブルの原因は、若手スタッフの懸命な努力によって、ひとつひとつ根気よく克服されていったのである。

 ようやく試作エンジンが完成すると、500cc2サイクル・ツインは動力計にかけられ、目標馬力がクリアされた時点で走行テストが開始された。テストは機密保持のために深夜から早朝にかけて、行われたといわれる。そしてある日、未明の竜洋テストコースで、目標とされた180km/hオーバーの最高速度が達成されたのだ。1967年になると、試作モデルはアメリカ大陸に運ばれて、ネバダ砂漠の過酷な気象条件のもとで最終的なテストが実施され、万全を期して市販へと移されることになったのだった。

 1967年のモーターショーは、期せずして2サイクルの大型ロードスポーツの発表ラッシュに沸くことになった。このショーで、スズキの新500ccロードスポーツ、『T500 』もマニアの前に公開された。同じショー会場では、ヤマハ、カワサキ、ブリヂストンからも350ccモデルが、同時に発表されることになった。これらのモデルはどれをとっても、それぞれに個性に富み、魅力にあふれていた。だが、スズキのT500 の前では影が薄れがちだった。それほど、500ccという排気量はインパクトが強かったのである。

 前作のT20の技術を、T500 は多くの部分で受け継いでいた。一挙に排気量が倍になったとはいえ、技術的には極めてオーソドックスな成り立ちだった。話題の中心となった大型2サイクル・ツインにしても、47ps/6500rpm という最高出力は、軒並みリッター100馬力を達成していた他の350ccエンジンに比べれば、驚くほどのハイパワーとはいえなかった。とはいっても、ピストンバルブを装備した500ccのエンジンは、そのキャパシティの大きさで、見るものを圧倒した。

T500 のエンジンは当然、スズキが誇るCCIを採用していた。いや、CCI なくしては存在しなかったかも知れない500cc2サイクル・ツインは、クランクケース右後方に設置されたオイルポンプからクランクシャフトの両端部へオイルを圧送していた。この強制給油潤滑システムによって、T500 の信頼性は、はじめて確保されることになったのだ。 ゴム製インシュレーターを介して装着されるキャブレターは、T20と同じ同圧型が採用されていたが、出力特性はT20に比べて穏やかになっていた。フレーム・ワークもT20タイプのダブルクレードルを補強したもので、いったん走り始めれば193kgの車重を意識させない軽快な操縦性を発揮した。また、ブレーキには、Wパネル・ツーリーディング(前200mm、後ろ180mm) という凝ったものを採用していて、安定した制動力もT500 の大きな魅力となっていた。

 T20から一挙に倍の排気量を得たT500 からは、もはやピーキーとか神経質といった形容詞は消えることになった。T500 はトップスピードの180km/hまでパワフルに、しかも穏やかに加速したのである。こうした特性はアメリカ市場でも好評をもって迎えられた。上質なクロームメッキをふんだんに施し、ゴールドメタリックの塗装にバックスキンのシートという派手な出で立ちのT500 は、アメリカ人の好みを意識してデザインが決定されていた。こうしたスズキの目論見どおり、T500 はアメリカ市場という巨大マーケットに受け入れられたのだ。また、ロードレーサーに改造されたTR500 タイタンのデイトナでの活躍も、T500 のアメリカでの人気に拍車をかけることになった。


DT1

(リード)

広大な国土を持つアメリカでは、オフロード・モデルの需要が高く、多種多用なスタイルのモーターサイクルが求められていた。エンデューロ、モトクロッサーといったオフロード・モデルに混ざって、獣道を自在に走り回るという意味の名前を冠したトレール・モデルも安定した人気を博していた。ヤマハは早くから、この潜在的なマーケットに注目していた。

(本文)

 都合のよいことに、ヤマハには当時、YX26という強力なモトクロッサーがあった。名ライダー、鈴木忠男によって国内のモトクロスレースで連勝を続けていたこの工場レーサーが、この新オフロード・モデルの開発には、少なからず役立つことになった。まず、ヤマハの技術陣は、当時のトレール競技で無敵を誇っていたブルタコを購入、自社のYX26と比較テストを行うことから、開発の口火を切った。しかし、テストでは、当面の目標に定めたブルタコの走破性のよさを思い知らされる結果となった。モトクローサーとトレール車の用途を考えれば、この結果は当然のことといえた。ヤマハは、こうした比較テストの過程で、トレール・モデルのなんたるかを、短期間に学習したのだった。その結果、ヤマハの技術陣が目指すトレール・モデルのイメージは、順調に具体化してくことになった。

 完成したトレール・モデルはまず、1967年の東京モーターショーに展示され、会場の話題を独り占めすることになった。パールホワイトのタンクと赤く塗られたダブル・クレードルフレームの対比も鮮やかな『トレールDT1』は、それまで国内では目にしたことのないような、本格的なオフロード用モーターサイクルだった。当然、ショーの会場を埋め尽くしたマニアの熱い視線は、DT1に釘付けにされることになった。

 DT1は、翌年の3月に発売が開始されると、いっきに爆発的な人気を博した。それまで、ロードスポーツや実用モデルを改造してお茶を濁してきたオフローダー達が、先を争うようにしてDT1に飛びついたのだった。そして、ついには、トライアルの神様と呼ばれたブルタコの契約ライダー、サミー・ミラーまでもが、DT1を絶賛したのだった。自身のマシンと乗り比べたミラーは、DT1のエンジンのトルクバンドの広さに驚きの表情を隠せなかった、といわれている。同じ5段ミッションを持つ両車を比較すると、トルク特性の差は一目瞭然だった。

DT1の2サイクル空冷単気筒の250ccエンジンは、ヤマハ得意の5ポート・ピストンパルブで18.5ps/6000 rpmのパワーと、2.32kg-m /5000rpmのトルクを発生していた。とくに、低中速域のトルクは厚く、広いパワーバンドと回転の滑らかさは、特筆に値した。クラスとしては大きめの30mm径のキャブレターを採用した単気筒エンジンは、シャープな吹け上がりに加えて、抜群の粘り強さを発揮していたのだ。その上、燃費の面でも優れたこの2サイクル単気筒エンジンこそが、DT1の成功の鍵を握っていた、といってもけっしてオーバーではなかった。

 DT1のデビューによって、我が国でも、オフロード走行を楽しむマニアが急増した。DT1の登場よって、林道ツーリングがちょっとしたブームとなったほどだった。それまでは、一部マニアに独占されていたオフロードの世界が、いっきに身近なものになったのである。トップスピードが120km/hに達し、0〜400mを18秒で駆け抜けたDT1は、パワフルでフレキシブルなエンジン特性ゆえに、舗装路、ダートを問わず、誰にでも乗り易いストリートスクランブラー的な素質も合わせ持っていた。DT1は国内の一般的なライダー達に、オフロード走行という、まったく新しい楽しみを紹介したのである。そうした意味では、DT1はエポックメーキングなモデルであった。

 また一方では、DT1をモトクロッサーのベースとしてとらえたマニアも少なくなかった。彼らにとっては、112kgという車重は、なににも増して魅力的に映った。重い改造モトクロッサーは、DT1の登場を境に、完全にモトクロス・コースから駆逐されることになったのである。メーカー・サイドもこうした用途を開発段階から考慮して、はやくからDT1にスポーツキットを用意していた。ピストン、シリンダー及びシリンダーヘッド、キャブレター、エキスパンションチャンバーなどを組み込んだDT1は、最高出力が30馬力にも達していたのである。こうしたマニアにとってDT1は、あの工場レーサー、YX26の再来であった。

DT1は、その優れたデザインが認められて、通産省が主催する1968年度のグッドデザイン賞を獲得した。そして、その後に続くライバル達に多大な影響をあたえることになった。そして、自らも1969年には125ccクラスのAT1を、1970年には90ccのHT1、175ccのCT1、350ccのRT1、と多くのバリエーション・モデルを派生して、オフロードの王者として君臨したのである。この時期、DT1によってオフロードの素晴らしさを知ったマニアは少なくない。そうしたマニア達の多くは敬愛の情をこめて、DT1を“白い駿馬”と呼んだ。



風倶楽部

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