CB92 1959

CB92 (1959年)

 数奇な運命に玩ばれたCB90はその後、自然消滅の道を歩むものと思われた。しかし、1959年5月(CB90の発表から4ヵ月後) 、幻のCBはその名もベンリイ・スーパースポーツ(通称ベンスパ)CB92として、再デビューを果たすことになった。車名からも分かるようにこの間、CB92のベース・モデルはC90からC92に変更されていた。つまり、当時としては珍しいセルモーターを備えたロードスポーツとして、CB92は復活したのである。このセルモーター装備によるイージー始動というスタイルは、その後に続くCBシリーズの大きな特徴として、人気の一端を担うことになる。

CB92は、CB90の項でも記したように、「ドクロタンク」と呼ばれた燃料タンクやフェンダー、シート等のデザイン変更により、アサマ型レーサーを彷彿させるスタイルが人気を呼ぶことになった。

しかし、CB92は、その外見以上に本格的なロードスポーツだった。CB92用として、新たにタコメーター用ケーブルの取り出し部がヘッド右側に追加されたパラレルツイン・エンジンは、圧縮比をC系の8.5対1から10対1に高め、カムのプロフィールやシングルキャブレターの口径を変更した結果、最高出力は11.5ps/9500 rpmから15ps/10500rpmに向上していた。さらに、高出力・高回転化にともなって、C系では2ベアリング支持だったクランクシャフトは中央に支持部が追加され、4ベアリング支持となっていた。こうした目には見えない部分に、積極的にレーサーで培われた技術がフィードバックされていたのも、CB92の特徴であった。実際に、130km/hといわれたCB92のトップスピードは、当時のレーサーに比肩するものだった

 このCB92の人気を決定的にしたのが、デリバリー開始直後の8月に開催された、第3回浅間火山レースであった。このレースでの北野元選手の駆るCB92の活躍は、こんにちでも伝説として語り継がれている。

同レースの前座ともいえるプライベート・クラスに参加した北野選手は先ず、125 átクラスを発売間もないCB92で制覇。続く250ccクラスもCR71で連覇して、弱冠18歳の少年は一躍、脚光を浴びることになった。さらに、両レースでの成績を認められた北野選手は、メインレースのプロフェッショナル・クラスのウルトラライト部門(125ccクラス) にも、特別に参加が許可されることになる。

 プロフェッショナル・クラスには、錚々たる面々が顔を揃えていたが、なかでも注目されたのはマン島TTレース帰りのホンダ・ワークスチームだった。彼らはTTレースで使用したRC141の火山レース仕様、RC142( ボア・ストロークはRC141と同一、つまりCB92と同じ) を浅間に持ち込んで、必勝態勢をしいていた。レースは序盤こそ、予想どおりにRC142勢がトップ・グループを独占、これを北野選手の駆るCB92が猛追するかたちで展開した。だが、恐れを知らぬ18歳の少年はひるむことなく順位を挽回して、ついには先頭でゴールを駆け抜けてしまったのである。

我が国最大のレースを舞台に、並居るワークス勢を相手にまわしてCB92が勝利したというビッグ・ニュースは、発売間もないロードスポーツの名声を一挙に高めたことはいうまでもない。その後もCB92は、各地で行われたレース( スズカがオープンする以前の地方レース)を席巻して、レーサーに勝るとも劣らない高性能を実証することになった。メーカー・サイドもこうしたユーザーに対応して「Y部品」と呼ばれたレース用キットを発売、強力にバックアップすることになった。ウィークデイはスポーティーなロードスポーツとして活躍し、ひとたびセルモーターと保安部品を外せば一級のレーサーに変身する、初期のCBは、こうした離れ技のできるロードスポーツであった。

 1959年に発売されたCB92はその後、1964年に到るまで、ホンダの125ccクラスのロードスポーツの主役の座に君臨した。その間、フレームに関してみると、3タイプのCB92が存在したことになる。一般的には、1959年に限ってデリバリーされた初期型と、それ以降の後期型に分類されるのだが、1964年に市販された最終型にはこの年特有のフレームが採用されていた。

 こうした各タイプのCB92の中でも別格といえるのが、ごく少数が生産された初期型のCB92である。この初期型では燃料タンクやフェンダーにアルミニウム合金が奢られていたほか、エアスクープを備えた200mmの大径ドラムブレーキ(2リーディング) には加工が難しいマグネシウム合金が使われていた。こうしたコストを度外視した軽量化はレースを強く意識した結果で、浅間火山レースで北野選手が活躍したCB92も、まさに初期型であった。エンジンに関しても、初期型ではCサイズの小径(レーシング)プラグが標準装備されていたのである。通称「アルミタンク」の愛称で親しまれるこの初期型のCB92は、浅間火山レースのために生産された準市販レーサー、といっても過言ではなかった。


 (別記)

 ホンダ ベンリースーパースポーツCB92

(リード)

1959年。マン島TTレースへの初挑戦を目前に、ホンダは、CB90という魅力的なロードスポーツを発表した。このモーターサイクルは、1958年型の実用モデル、C90をベースに大幅に手を加えたスポーツモデルで、TTレースのプロダクション・クラスにエントリーするため急遽、製作されたものだった。しかし、肝心のTTレースでは、プロダクション・クラスのレースは何故か中止されることに。そのため、ホモロゲーションを得るためにごく少数が製作されたCB90は、“幻のモデル”となってしまった。

(本文)

その幻となるはずのロードスポーツが、僅か4か月後の同年 8月、『ベンリースーパースポーツCB92』と名称を改めて突然、発売されることになったのである。ベースモデルがC90からセルモーター付きのC92へと変更されたのにともない、CB92もそれに準じた変更を受けていた。しかし、発売された125ccロードスポーツはOHC2気筒エンジンをプレス・バックボーンフレームに搭載し、フロントにはボトムリンクを採用するなど、まさにTTレース仕様そのものといった出で立ちであった。

 ホンダは、このTTレーサー・レプリカともいえるCB92を投入することによって、第2回全日本クラブマンレース、通称、浅間火山レースに必勝を期したのである。125 átのライトウェイト・クラスは、下馬評ではディフェンディング・チャンピオンのヤマハが圧倒的に有利といわれていた。ところが、新鋭CB92の出現によって、形勢はいっきに逆転した。この年、雪辱を期するホンダの意気込みは大変なもので、短期間で製作されたCB92のほとんどがホンダ系クラブに手渡され、火山レースに備えて入念にチューニングされた。その結果、40台が参加したライトウェイト・クラスの過半数、実に24台がCB92およびC90改のホンダ勢によって占められることになったのである。対するヤマハ勢は、12台のYA1でこれを迎え撃つことになった。

 レースは、意外な展開をみせることになった。並み居る強豪を尻目に、スタートから飛び出したのは、発売間もないCB92( ベンリィSSでエントリーしていた)を駆る関西ホンダ・スピードクラブ所属の北野元だった。これをファクトリー勢が猛烈に追い上げるかたちでレースは展開した。だが、工場レーサー勢の追撃も結局は一歩及ばず、弱冠18歳のプライベーターの駆るCB92が見事にデビューウィンを飾ったのである( 余談になるが、北野は、この年の浅間火山レースでは125 átクラスの耐久レースと250 átクラスのクラブマンレースにも優勝、ハットトリックを達成している)。

 浅間火山レースでの北野の活躍は、CB92のその後に、大きな影響を及ぼすことになった。北野の勝利によって爆発的な高まりをみせたCB92の人気に応えて、ホンダは、クラブマンレース用に限定販売したはずのCB92の生産続行を決定したのである。CBの名を冠した初の市販ロードスポーツ、CB92は、こうした経緯を経て量産化されることになったのである。ここで確認しておくと、“CBはクラブマンの略”とする説はいかにも“らしい”が誤りで、実用車がC、その対米輸出仕様がCAと総称されていた当時、Aの次が必然的にBとなったのが、CBという呼称の由来である。

 CB92の魅力を一言でいえば、その成り立ちゆえに持って生まれたレーシーな性格、といえる。ドクロタンクと呼ばれる独特なデザインのロング・タンクをはじめ、薄めのシート、浅いフェンダーなどが醸し出す独特のムードから、黎明期のホンダの工場レーサーに思いを馳せるマニアも少なくない。こうしたピュアなマニアからは、1959年に生産されたCB92こそがベスト、という声をよく聞く。たしかに、この初期型にはタンクやフェンダーにアルミ合金が多用されていて、徹底的に軽量化が図られた形跡が窺える。さらに、エアスクープを備えた大径(200mm) のツーリーディング・ドラムブレーキには、高価なマグネシウム合金が奢られていたほどだ。だが反面、最高出力の15psを10500 rpm で発生する高回転型エンジンは、7000rpm 以下ではほとんど使いものにならず、硬めのボトムリンク・サスともあいまって、この初期型CB92は、けっして万人向けのロードスポーツとはいい難かった(こうした傾向は、同排気量の市販レーサー、CR93が登場する1962年までのCB92まで顕著であった)。

 CB92の動力性能は実際、当時のロードレーサーに比肩するものであった。クロスレシオの4段リターン式ミッションを駆使して常時、高回転をキープできる腕前さえあれば、ライダーは一般路上でレーシングスピードを体験できた。しかし、CB92のポテンシャルを満喫できたライダーは、そう多くはなかったはずだ。たとえ改良されていたとはいえ、実用車のC90から流用されたプレス・バックポーンフレームやボトムリンク・タイプのフロントフォークは、ピーキーでハイパワーな125ccツインの性能に対して、少なからず役不足の感は否めなかったのだ。しかし、それだけにCB92を乗りこなした時の喜びは、ひとしおだったに違いない。当時のマニアは、こうした血気盛んなライダー達を、尊敬の念をこめて“ベンスパ乗り”と呼んで賞賛した。CB92はその後、150ccに排気量をアップしたCB95を派生するなど、年を追ってマイルド化されていった。そして結局、1964年に現役から引退するまでに、およそ15500 台のCB92が生産され、多くのマニアに愛されたのだ。

風倶楽部

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