HONDA ホンダCR71 1959
C70(1957y.10) の開発と同時期に、工場レーサとなるC70ZとC75Zの開発も行われていた。浅間火山レースにデビューすべく各部のモディファイが施されたモデルは、誰もが驚愕と羨望の眼差しを向けるに相応しい仕上がりだった。C70 に採用された鋼板プレスのフレームは、シーム法と言われる新しい溶接法が用いられ、独創的で美しい個性的な外観を持っていた。が、CR70Z はパイプ製のバックボーンフレームを採用した近代的な内容が与えられていた。強化されたフロントのボトムリンク・サスと、ニーグリップ部を大きくえぐり込んだロングタンクが、このモデルが只者でないことを象徴している様でもあった。 そして翌年(1958y.5) 、C70 にセルモーターを与えたC71 がデビュー。この頃、幻のCBとなったCB71も製作され、量産寸前までテストが繰り返されていた。アサマ型に似たタンクと、マグネシウム製のφ200mm のブレーキハブを持つプレスバックボーン・フレームのスポーツモデルだった。しかし、ハイチューニングが施された250cc のパワーユニットとフレームの相性が整わず、発表直前にオクラ入りとなってしまったと言う経緯もある。そして1959年、そのCB71とアサマ用ワークス・レーサーRC71/RC76 の混血とも言えるモデルが誕生する。CR71と呼称されたクラブマンレーサー。いわゆるアマチュア向けの市販レーサーだった。既に、カムシャフトの駆動にはギアトレーンを採用。C70 の18HP/7,400rpm →24HP/8,800rpm へと高出力化が図られた純粋なレーシングモデルだった。CBのルーツを辿る時、C 系の存在を無論否定は出来ないものの、CRを直系とする“ ホンダレーシング・スピリッツ" の印象を覆い隠すことは出来ない。モーターサイクルにあってスポーツ指向に根差したCBの軌跡は、他メーカーにも影響を与え、その後に多くの追従モデルを生むこととなる。
ホンダ ドリームレーシングジュニアCR72
(リード)
1959年のマン島TTレースへの挑戦を皮切りに、ホンダは全社一丸となって世界選手権シリーズ(GPレース)の制覇を目指した。そして、1961年を境に飛躍的にパワーアップしたホンダのRC系工場レーサー群は、GPレースを舞台に、怒濤の快進撃を開始することになったのである。そして、ホンダはその後、破竹の勢いで次々と勝ち星を重ねていくことになった。そして、1966年にはついに、GPレースの全5クラスを完全制覇するという、空前絶後の偉業を達成したのだった。こうしたRC系GPレーサーの活躍をステップにして、ホンダは世界のトップメーカーへと躍進していったのである。
(本文)
また、一方では、こうしたRC系工場レーサーによるGPレース参戦とは別に、ホンダはクラブマン・レベルのレースにも、積極的な姿勢を貫いていた。古くは浅間火山レースに向けて、C70やCB92にレーシングキットを設定、プライベートライダーのレース参加を支援したこともあった。また、CB72の原型ともいわれた、CR71市販レーサーを駆るホンダ・スピードクラブの面々の活躍には当時、目を見張るものがあった。
1962年に鈴鹿サーキットが開設されると、こうしたクラブマン・レベルのレースを取り巻く状況は、いっきにエスカレートすることになった。各メーカーは、こぞってロードレース専用の市販レーサーを開発して、国内のレースもいよいよハイスピード時代を迎えることになったのである。
こうした状況にいち早く対応したホンダは( 仕掛け人でもあった?)、カブレーシングCR110 、ベンリイレーシングCR93といったGPレーサー・レプリカを、矢継ぎ早に市場に投入した。そして、こうしたホンダの市販レーサー・シリーズの第3弾として登場したのが、ドリームレーシングジュニアCR72(250cc) とCR77(305cc)であった。ネーミングや排気量設定から想像できるように、この両モデルはスーパースポーツとて爆発的な人気を博したCBシリーズのレーサー仕様といった位置づけだった。だが、実際のCR72/77は、CBとはまったく別物の、本格的な成り立ちのレース専用モデルだったのである。
CR72の特徴的な巨大なDOHCヘッドに注目すると、ペントルーフ型燃焼室を形作る4バルブ方式は、バルブの挟み角が大きな吸気効率を重視したデザインで、当時のRC系GPレーサーの技術がダイレクトにフィードバックされていた。もちろん、バルブの駆動系には他のCR同様に、スパーギアを組み合わせたギアトレーンが採用されていた。また、CR72の場合、54×54mmと56.9×49mmの2種類のボア・ストローク比のエンジンが存在したようだが、いずれにしてもCR72に搭載されたDOHC並列2気筒エンジンは、CBシリーズとは一線を画する、純レーシング・エンジンといえるものだった。このCR72の出力は25馬力と控え目な数値が発表されていたが、イギリスの専門誌のテストでは、実測で41馬力をマークしたといわれている。もちろん、この値はレーシングキットを組み込んだ状態に違いないが、それにしてもCR72は驚くべきポテンシャルを秘めた市販レーサーであったわけである。こうしたレーシングキットでチューニングされた並列2気筒エンジンは、10000回転以上という未曾有の高回転域で真価を発揮した。この時、CR72のメガホン・タイプの排気管から弾けるエキゾースノートは、マン島をはじめとする世界のサーキットを駆け巡った、RC系GPレーサーを彷彿させる凄まじさで、マニアの度胆を抜いたのである。
このCR72にはタイプ1型と2型があったが、外観上の相違点は、ステアリングヘッドから伸びたダウンチューブによって識別できた。1型はCBシリーズ同様にダウンチューブでエンジンを吊り下げる形状だったのに対して、強化型ともいえる2型では、ダウンチューブがクランクケースを直接支持していた。こうしたフレームワークに関してみれば、1型にはCBの面影が残されていた、ということもできそうである。
CR72は当初、他のCRシリーズ同様に、保安部品を装備した公道走行が可能なスーパースポーツとして計画されていた。実際、保安部品を纏ったロードゴーイング・モデルの写真も残されている。しかし、あまりにも強力な動力性能だったためか、CR72は市販時にはクラブマンレース用の純レーサーとして登場したという経緯があった。CR72は、こうしてごく限られたプライベート・チームを対象に限定販売されたために、1962年から63年にかけて、僅かに54台が生産されただけ、といわれている。一方、CR77に至っては14台の生産が確認されているにすぎない。それだけに今日、CR72/77は非常に貴重なコレクターズアイテムとなっている。幻の市販レーサー、CR72/77には、世界に向けて飛翔した栄光のRC系GPレーサーの血統が、随所に色濃く受け継がれていた。CR72/77は、1960年代初頭に登場したCRシリーズの頂点に君臨した、ホンダ最強の市販レーサーだったのである。
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