CB72 (1960年)

CB72 (1960年)

 挫折したCB71計画に変わって、デビューが急務となった250ccクラスの本格的ロードスポーツは、1957年の浅間火山レースに出場したC70改レーサーを基に開発されることになった。このC70改レーサーは、市販モデルのC70のOHC2気筒エンジンを高度にチューンして、独自のパイプフレームに搭載したもので、その後すぐにC70Zへと発展した。このC70改/C70Zには、エンジンをシリンダーヘッドとクランクケース後部で吊り下げる構造のパイプ製バックボーンフレームが採用されていたが、このエンジン自体をストレスメンバーとするパイプフレームが急遽、開発中の新型ロードスポーツにフィードバックされることになったのだ。

 一方、C70Zはさらに熟成され、1959年には市販レーサーのCR71として、選ばれたホンダ系プライベーター(ホンダ・スピードクラブ)に限定販売された。このワークス・レプリカともいえるCR71は、カムシャフトの駆動方式に複雑なギア・トレーンが採用されていた他、ボトムリンク・サスペンションやCB92に似たタンクを装備していたため、当時の浅間型レーサーそのものといったスタイルだった。だが、フレーム構造の共通性を理由にこんにちでは、CB72の直接の母体はこのCR71だとするマニアも少なくない。

 ホンダ初の250ccクラスのロードスポーツは、ドリーム・スーパースポーツCB72と命名されて、1960年11月に開催された第7回自動車ショーで一般公開されることになった。( 国内デビューという意味。海外では、9月のフランクフルト・ショーで事実上のデビューを果たしていた)

 この時点ではまだ、参考出品扱いだったにもかかわらず、発表されたCB72の性能諸元にマニアは強い衝撃を受けることになった。当時の高性能ロードスポーツの代名詞ともいえたヤマハのYDS1(250cc) の最高速度が140km/hだった時代に、CB72は155km/hのトップスピードを豪語していたのである。また最高出力は、YDS1の20ps/7500rpmに対して、CB72は24ps/8000rpmを絞りだしていた。

 こうした驚異的な動力性能に加えて、工場レーサーを彷彿させるパイプフレームやテレスコピック式フォークを装備したCB72が、ショーの人気を独占したことはいうまでもない。当時の大卒サラリーマンの初任給のほぼ一年分、18万7000円という高価格にもかかわらず、CB72はたちまちマニア憧れのロードスポーツとなったのである。

 余談になるが、このショーで展示されたCB72には、C72そのものともいえるフィン形状のパラレルツイン・エンジンが搭載されていた他、ステアリングヘッドやスイングアームに固有の特徴がみられた。このプレ量産モデルともいえる仕様のCB72 (1960年型)は、ごく少数、あるいはたったの1台だけが現存するといわれている。

 ショーの翌年、1961年から市販が開始されたCB72には、タイプIとタイプIIと呼ばれた2種類のエンジンが用意されていた。つまり、C72の流れをくむOHC並列2気筒エンジン( ボア・ストロークは54mm×54mmのスクエア・タイプ)には、並列2気筒としては常識的な360度等間隔爆発の“360度クランクのタイプII”と、180度/540度という不等間隔爆発の“180度クランクのタイプI”という仕様があって、2種類のエンジンを搭載したCB72が同時に市販されたのである。このタイプIの変則的な180度クランクは、同社のRC系工場レーサーで実績を積んだ技術で、低回転域でこそ振動面で不利な面があったが、高回転域での動的なバランスに優れるという出力特性があった。

 タイプI、タイプIIとも、最高出力の公表値は24ps/8000 rpmと数値上は同一であったが、出力特性の違いは最高速に表れ、タイプIIの145km/hに対してタイプIのトップスピードは155km/hと、両タイプには10km/hの速度差があった。反面、100km/hまでの低速域での扱い易さはタイプ2が優っていたが、当時の有名な“トップで80km/h以下では走れません”という、挑発的なCB72の宣伝コピーは明らかにタイプ1の過激な高性能ぶりを物語っていた。

 こうして2種類のエンジンが選択できたのには、ひとつの理由が考えられた。CB72のベースとなったC系エンジンに限らず、当時のホンダ製エンジンは各ジャーナル部にボール及びローラーベアリングを使用することにより、高回転/高出力化を実現していた。そのため、必然的に、クランクやカムといったシャフト類はビルトアップ・タイプ(組立て式) が採用されていた。つまり、こうしたパーツは、位相をかえて組み立てることによって、2種類のクランクやカムが比較的容易に製作できたわけで、実際、パーツリストで見る限り、タイプ1もタイプ2も同じパーツ・ナンバーが指定されていた。(ちなみにホンダの場合、一般的なプレーンベアリングが採用され、その結果としてクランクが一体式となったのは、1969年にデビューしたCB750以後のエンジンからとなる)

 ただし、不等間隔点火の場合、点火系を二系統化する必要があるため、ポイントが二つ装備されていたのが、タイプ1エンジンの大きな特徴といえた。また、360度クランクのCB92がシングル・キャブで高出力を達成していた当時、後発のCB72にツイン・キャブレターが奢られていたのは、180度クランク仕様に対応したためとも考えられる。

 ともあれ、この出力特性の異なる2種類のエンジンは、一説によるとタイプ1が輸出仕様、タイプ2が国内仕様といわれてきたが、たしかに当時、国内ではタイプ1の入手が困難だった時期もあったようだ。

余談になるが、当時は(いまも?)当然、タイプI仕様は珍重され、特にレース指向のユーザーは例外なく、タイプ2をタイプ1仕様に改造していた。

 実質的には1961年に発売が開始されたCB72はその後、1967年の最終型まで、およそ7年という長期にわたって量産された。CB72にはその間、繰り返し改良が加えられた。しかし、こうしたマイナーチェンジに関して、当時のホンダは、あまりこだわりがなかったようで、仕様変更にともなう名称(呼称)の変更は行われないのが通例だった。それほど日常的に改良が加えられていた、ともいえるわけだが、ともあれこんにち一般的に語られる前期型とか後期型といった呼称は、マニア間の解釈ということになる。このことを念頭において、CB72の変遷を辿ってみる。

 ホンダ自身の年表によれば、CB72の発売開始は1960年11月となっている。この1960年型モデルの特徴は、いわゆるショーモデルともいえるもので、ワン・オフ( 単品生産) 的な性格が強い。その詳細は別項に記したが、こんにちでは1台の現存が確認されているにすぎない。

 量産ラインによって生産されたCB72は、実質的には1961年に市販が開始された。この1961年モデルの特徴としては、フロントフェンダーをはじめとしたアルミパーツの多用が挙げられる。これはCB92(ベンスパ) にもいえたことだが、最初期型のCBはレーシングユースを強く意識していたため、と推測できる。また、この年のCB72では、メーターまわりにもデザイン的な特徴がみられた。つまり、1961年型では、メーターパネルの枠とトップブリッジが一体化されていたのだ。そのため、回転計と速度計からなるメーターパネルは、一体化されたヘッドライトケースとともに、トップブリッジに組み込まれるかたちでセットされていた。この凝ったデザインのメーター枠付きトップブリッジはその後、雨水の侵入という意外な欠点が露呈、一年限りで廃止されることになった。

 このトップブリッジに関しては、ショーモデル(1960年型) も一体型だったが、フロントフォークのオフセット量に関連して三叉部の角度が微妙に異なっていた。また話が前後するが、メーター枠が独立した1962年モデル以降も、さらにマイナーチェンジを受けているため、CB72はトップブリッジに関してだけでも、4度の変更を受けたことになる。同様にフロントまわりでは、フェンダーに関してもその後、アルミから鉄に材質が変更された以外にも、取付け方法の違いから4種類のフェンダーが用いられていた。

 さらに1961年モデルの大きな特徴として、フロントのドラムブレーキがシングルカムだった点が挙げられる。逆に、後輪にはダブルカムが採用されていて、この辺りは現在の常識とは相反する点が興味深いところだ。また細かなところでは、ブレーキレバーに関しても、先端にボールエンドのないC71のレバーが流用されていた。このように、最初期型のCB72には、実用モデルのC系の面影が色濃く残されていた。

 1962年前期モデルになると、件のドラムブレーキは、スーパースポーツとしては一般的な2リーディング式に改められた。しかし残念なことに後期モデルでは、魅力的なアルミ製パーツは鉄製に変更され、コストダウンがはかられることになった。一方、こうふした変更とは逆行するかのように、1962年モデルに限っては、なぜかマフラーはステンレス製が採用されていた(この年はC、CSもステンレス・マフラー)。そのため、この年のCB72は、独特の共鳴音をともなった、甲高いエキゾースノートを奏でた。

 また、エンジン関係ではこの年、オイルラインが変更され、外観ではアッパー・クランクケース上の丸いブリーザーケースがなくなり、シリンダーヘッドからのブリーザー方式となった。カム・チェーン系のテンショナーも強化され、一次チェーン側にもテンショナーが新設された。また、プラグは小径のCタイプからDタイプに変更されている。この辺りからCB72のパラレルツインは、C系エンジンの流れから独立して、独自の進化を開始することになった。

 1963年モデルには、目立った変更は施されていないが、車体の各所にコストダウンの痕跡が見受けられるようになった。また、エンジンの左サイドのオイルフィルターカバーに“HONDA”の文字が入ったのがこの年の特徴。この1963年モデルまでを、一般的には前期型と呼ぶ。

 1964年型モデルでは、エンジンに大掛かりな改良を受けることになった。プライマリー・ドライブギアとクラッチのアウター・ハウジングをつなぐプライマリー・ドライブチェーンに、はじめてテンショナーが取付けられたのだ。このため、CB72の欠点といわれたチェーン・ノイズは、劇的に軽減されることになった。そのため、1964年モデルをベストのCB72と位置づけるマニアも、こんにちでは少なくない。また、アルミ自体の材質も、より良質なものが用いられるようになったために、この頃からCB72のパラレルツインは多少、鋳肌が色白になった。

 1965年モデルも前年同様に、最もバランスのとれた、完成されたCB72といわれた。 しかし1966年になると、CB72はさらに進化して、フロントフォークのボトムケースがこんにちのようにアルミ製に変更され、インナーフォークも前時代的な真鍮製から、やはりアルミに変えられた。 最終型となる1967年モデルでは、主に保安部品が見直され、ウインカー類が大型化されて視認性の向上がはかられることになった。それにともない、フレームにはランプ類のブラケットが追加された。だが、たとえ時代の要求とはいえ、こうした安全性への配慮は、もって生まれたクラブマンレーサー的な性格とは相反する印象を、CB72に与えることになった。スターターと保安部品を外せば即座にレーサーに変身できたスーパースポーツ、CB72が駆け抜けた古き佳き時代はすでに、終焉の時を迎えていたのである。

 CB72は、比較的オートバイのライフスパンが長かった当時としても、たいへんな長寿モデルであった。その生涯には、当然のごとく様々なバリエーション・モデルが派生している。そうしたモデルに関して簡単に紹介してみると、先ず1961年には、CB72のボアアップ版ともいえる総排気量305ccのCB77が登場した。このCB77は、群を抜く高性能が認められて警視庁に正式採用され、白バイ(CP77と呼ばれた) として活躍したというエピソードも残されている。

 一方、よりマイルドなシングルキャブ仕様のC系エンジン(当然360度クランク) を搭載した、廉価版のCBともいえるCM72というモデルもデビューしたが、これは不人気車として短命に終わっている。

セルモーター付きということで気軽に乗り回せたことから、多くのCB72はビジネス用としても活躍していた。こうしたユーザーのために、混雑した市街地での使い勝手を考えた、アップハンドル仕様のCB72も生産された。いわばサラリーマン向けのCB72ともいえるこのモデルはCBM72と呼ばれ、全国のビジネス街で数多く見掛けられた。

 また変わり種としては、当時流行の兆しがみえはじめていたスクランブラー・クラスにデビューしたCLシリーズには、Cb系のパワーユニットがそっくり流用されていた。

CB72を語るうえで、避けて通れないのがモータースポーツでの活躍であろう。CB72の最大の特徴ともいえたセルモーターを脱着式とした設計は、こんにちではレーシングユースを前提にした設計と信じられている。その真偽はともかくとして、実際に数多くのCB72がレーサーに改造され、各地のレースを荒し回った。こうした改造レーサーと、ロードスポーツとしてのCB72の僅かなギャップを埋めたのが、メーカー自らが製作したレーシング・パーツ、「Y部品」であった。Y部品は外装パーツを中心に、広く市場に出回った。それこそ街のオートバイ店でも手軽に入手することができたといえば、その普及度が理解できるはずだ。たとえばFRP製のロングタンクとシングルシートのセットが、3万円たらずで誰にでも購入できたのだ。大卒サラリーマンの月給が1万円プラスといわれた当時、この価格が高かったのか安かったのかは微妙なところだが、誰でも買えたところにY部品の価値があった。

こうしたY部品とは別に、クロスレシオのミッションやハイコンプ・ピストン、ハイカムといった本格的なレーシング・パーツも、CB72には用意されていた。これらは当時、「マル秘パーツ」と呼ばれ、鈴鹿サーキット内のRSC(レーシング・サービス・クラブの略で、こんにちのHRCの遠い前身)で製作されて、限られたクラブにしか流通しなかった。こうしたスペシャル・パーツをフルに組み込んだCB72改レーサーは、優に200万円を超えたといわれている。一般的にはこんにち、クラブマン・レーサー=気軽なプライベーターのイメージだけが先行しがちなCB72だが、かなりその気でチューニングされたレーサーも、当時はけっして少なくはなかったのだ。

ちなみに、こんにちでは世界的なコンストラクターとして知られる、あのヨシムラが手掛けた初のロードレーサーもCB72(77)だった。それまでは、主に英国車をチューンしてドラッグレースに参戦していたヨシムラが、ロードレースに進出するための素材として選んだのがCB72だったわけである。名チューナー吉村秀雄が手塩にかけたCB77は、1964年に開催されたスズカ18時間耐久レースで上位を独占したのを手始めに、国内のレース・シーンを席巻することになった。

CB72は我が国のモータースポーツ、なかでもロードレースの礎を築いたスーパースポーツとしても、記憶に止められるべき名車であった。

風倶楽部

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