ドリームスーパースポーツCL72

■ホンダ ドリームスーパースポーツCL72

 ホンダ初のロードスポーツ、CB72のエンジンを流用して、デュアルパーパス・モデルとして開発されたのが『ドリームスーパースポーツCL72』で、国内では当時、ストリートスクランブラーと呼ばれた。もとをただせば、このCL72は、アメリカで当時、大流行していたエンデューロレース用に開発されたといわれている。

 CL72が登場する約3年ほど前になるが、1958年にホンダはC71をベースとして、RC70f というモトクロッサーを限定生産したことがあった。このRC70f は、およそ数10台がつくられ、ホンダ系スピードクラブからレースに参戦していたが、国内の需要には限界があるとの判断から、本格的な量産には移されなかった、という経緯があった。このRC70f の開発過程で得られたノウハウが、CL72の開発には活かされている、といわれている。

 CL72の場合もCBと同様、180 度クランクを持つタイプIエンジンを搭載して誕生した。しかし、エンジン自体は共通でも、軽量化のためにセルモーターは取り払われ、排気系が左サイドに2本のアップマフラーとしてまとめられるなど、見た目の印象はまったくの別物となっていた。さらに、ミッションのレシオはワイド化されていたし、2次減速比も落とされるなど、オフロード走行に対する配慮は万全だった。一方、フレームは、オフロード走行を前提とした強固なシングルクレードル・タイプが新たに設計され、ロードクリアランスは195mmと、充分とはいえないまでも多めに確保されていた。また、鉄性のH型リムに組みつけられた19インチという大径タイヤは大迫力もので、小振りなタンクとの対比が絶妙なバランスをみせるスタイルは、当時の量産モーターサイクルのなかにあって異彩を放つ存在となった。

 アメリカ市場での好評をうけて、CL72はその後、国内でも市販されることになる。この国内仕様ともいえるCL72は、エンジンこそ360 度クランクのタイプIIに変更されていたが、アメリカンスクランブラーそのものといったスタイリングに変更はなく、自動車ショーの会場では、大反響を巻き起こした。当時の国内でのオフロード・モデルといえば、ロードスポーツや実用車を改造したものが大勢を占めていた。それだけに、メーカーが作り上げた洗練されたオフロード・モデルの登場は、たいへんな衝撃であった。

1961年といえば、全国各地にモトクロス・コースが造られた年でもあった。東京近郊では、ホンダ自身の手によって、多摩テックがオープンしていた。発売まもないCL72の雄姿は、新設された各地のオフロード・コースで日毎に数を増していった。こうしたユーザーの声に応えて、CL72にもレース用のY部品が用意されていた。しかし、4サイクル・エンジンを搭載して、車重も153kgと重めなCL72は、軽量な2サイクル勢を相手に苦戦を強いられることが多かった。

CL72の楽しみ方は、むしろ他にあった。舗装率が現在ほどでなかった当時、舗装路も悪路も難無くこなせるCL72のデュアルパーパスな性格は、ツーリングユースに最適だったのだ。また、エキゾースト・パイプに取りつけられたデフューザーのために、独特な排気音を発する4サイクル・ツインは、こうしたシチュエーションによく似合っていた。こういったCL72の特性を理解したマニア達によって次第に、CL72はストリートスクランブラーという独自のジャンルを開拓していったのである。耐久性に富み、低速域から使いやすいエンジンは、このような用途にこそ適していた。

また、CL72は、メーカーさえも予想しなかった分野でも活躍することになった。林業関係者や測量技師、送電線を保守管理する電力会社といった、山間部を職場とする人々にとって、CL72は便利なツールとなったのだった。

 結局、モトクロッサーに改造されてレースに使われたCL72は、少数派だった。その大多数は、都会派ライダーによって、ツーリングに連れ出されることが多かったようだ。このことは今日でも、発売当時の姿を保ったオリジナル・コンディションのCL72が数多く残っていることでも、推測できる。熱心なマニアの手元に引き取られた60年代の異端児、CL72は今日、絶好のコレクターズアイテムとなっている。

風倶楽部

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