ジュノオM80 1962
革新的と言われながらも、セールス的には失敗に終わった先代のジュノオでの苦い経験をもとに、スッキリとしたデザインで復活した2代目ジュノオ。とはいっても、そこは独創性のホンダである。なんとフラットツイン搭載という世界にも類を見ない、画期的アイデアでの登場。ややアンダーパワーは否めないものの、無段変速機能の採用により、スムーズな走りが楽しめた。
ホンダ ジュノオM85
今やスクーター全盛期とも言わんばかりの勢いを感じる今日この頃だが、56年も前になる1961年にホンダが発表したジュノオM80は、今よりもずっと進んだ革新的なメカニズムを採用していた。
'50年代半ばの日本において、オートバイは需要の増加を辿る一方で、市場は過激なまでの競争が始まっていた。スクーターを主として生産していた新三菱重工業株式会社(シルバーピジョン)や富士重工業(ラビット)に対し、140社を越える二輪メーカーが存在していたのだ。
そんな乱立状態の二輪メーカーの生き残り競争は、軽二輪枠(4ストローク250ccまで、2サイクル150ccまで)の総生産台数約14万台に対し、原付(4ストローク90ccまで、2ストローク60ccまで)は約28万台の合計で42万台を主要12社のメーカーで競っていたことになる。この頃、スクーターの生産台数はイタリアに次ぐ世界第二位の生産台数を誇っていた日本。既存のスクーターメーカーに対し、各オートバイメーカーもスクーター戦線に名乗り出て行くことになる。
'54年9月には道交法改正され、それまでの4ストロークと2ストロークの排気量格差が撤廃されるなど、現行法の適応により2サイクル勢の勢いが活発化し始めていた。が、'55年にホンダは4サイクルOHV単気筒のジュノオK型の発売に踏み切る。しかし、この年ホンダは売り上げトップの座を意に反してトーハツ(東京発動機)に譲ることと成る。
軽量化を目的として採用したFRPの採用が仇と成って、ジュノオK型のボディーは鉄板以上に重量を増してしまう。要するに、鉄板同様の強度を求めるにあたり繊維と樹脂の積層量が大幅に増えてしまったのだ。これにより、198ccで6.5hp/4,800rpmの十分なはずのパワーも役不足になり、急遽250ccに積み換え、更に一時期はスターターを廃止してまでも軽量化に努めるも全てが無駄な努力と成って、K型は僅か1年半で発売を中止せざる終えなくなってしまった。改良に次ぐ改良の積み重ねは、ユーザーへの納車にも支障を来たし、更には販売店に対しても不信感を与えたに過ぎないものとなってしまったのだ。
'50年代後半になってホンダは僅か50ccのOHVエンジンを搭載したC100の大反響で息を吹き返した。「なべ底」と言われた不景気に安価なモペットが市場では需要を高めていたのだ。タスモペットやスズモペットが先鞭をつけたわけだが、スーパーカブの性能は先行する他社を抜きん出たものであった。
しかし、スクーター市場はその間に飛躍的な向上を示し利便性や高性能化、更には装備の充実化が図られて行き確固とした支持を受ける存在にも成っていた。こうした状況をみて、ホンダは封印していたスクーターの開発に再チャレンジすることとなった。
そうして生まれたのが「ジュノオM80」。反省材料と成ったK型のアンダーパワーを改善すべく、また、人気の回復を図って最高水準のメカニズムを採用して来たのだった。油圧ポンプと油圧モーターを連動させた無段変速機(流体トルクコンバーター)を採用し、パワーユニットは水平対向のOHV2気筒125cc、ツインキャブと言うスクーターらしからぬゴージャス極まりない装備をまとっていた。
だが、ここでもホンダは足踏みをすることとなる。パダリーニ・ミッション(イタリアのパダリーニ研究所製)のパテントを得たことによる生産コストの高騰と、この伝導効率の見込み不足によるアンダーパワーが再び足かせと成ってしまったのだ。当初の43×43ccのボア&ストロークを改善し、50×43ccとした170ccのパワーユニットは11hpから12hpへとパワーアップするも、16万9千円(CL72:18万9千円)と言う高価なスクーターは、その秘めたる高性能を見いだされること無く市場から姿を消し去ることとなってしまった。クランクシャフト、ミッション、ドライブシャフトを有したレイアウト然り、また、スクーターと一線を期したフロントのボトムリンクサスやリアのスイングアームなど、希少と成る一級品の装備のこのスクーター。現有するオーナーはさぞかしその高性能をしたり顔で満喫していることだろう。
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