無敵のマラソンランナー
〔サブ〕
耐久レーサーRCBが駆け抜けた時代
■CB750 Fourのレース・デビュー
ホンダの世界戦略モデルとして1969年に市販が開始されたCB750 は、国内外で爆発的な売れ行きをみせ、その後の3年間で22万台余りが生産されるという、空前の大ヒット作となった。大型ロードスポーツといえば、旧態依然とした英国製ロードスポーツが主流だった当時、並列4気筒というGPレーサーを彷彿させるエンジンを搭載したCB750 は、他に類をみない“超”高性能スーパースポーツだったのだ。当然、レース関係者も、CB750 のパフォーマンスに着目したことはいうまでもない。国内での発売と前後して開催された鈴鹿“10時間”耐久ロードレース(1969年)には、はやくもCB750 の耐久レーサーが姿をみせ、隅谷守男/菱木哲哉組と尾熊洋一/佐藤実組(ともにホンダ社内チーム、ブルーヘルメットMSC)が、デビュー戦をワンツー・フィニッシュで飾ることになった。
■デイトナ200 マイル・レースでの勝利
ホンダにとって幸運だったのは、翌1970年からデイトナ200 マイル・レースのレース規則が変更されたことだった。AMA傘下の同レースは、この年を境に国際ルールのFIMの“F㈼フォーミュラ750 ”で行われることになり、CB750 にも参加の道が開かれたのだ。このアメリカ最大の2輪レースは、メーカーにとっては絶好の宣伝の場でもあった。北米市場に本格参入したばかりのホンダはさっそく、CB750 をワークス・チューンしたデイトナ仕様の「CB750 R」を製作、アメリカ・ホンダのラルフ・ブライアンズ、旧知のトミー・ロブ、ホンダUK(イギリス)のビル・スミス、さらにはライバルのBSAワークスからAMAの名手ディック・マンまで借り受けて、強力な布陣でデイトナ200 マイル・レースに臨むことになった。しかし、ライバルも手強かった。公式予選では、トライアンフのジーン・ロメロ、ゲーリー・ニクソン、BSAのマイク・ヘイルウッドに先行を許して、ホンダは4番手のディック・マンが最高位だった。決勝レースは、トライアンフ、BSA、ホンダの三つ巴の戦いとなったが、予想外のハイペースによるオーバーヒートでイギリス勢は次々とリタイアしていった。一方、首位に立ったディック・マンのCB750 Rも終盤、深刻なミスファイアに見舞われたが、追いすがる2台のトライデント750 を抑えきって、なんとかトップでゴールに飛び込んだ。こんにちレース結果だけをみると、ホンダがイギリス勢を一蹴したような印象を受けるが、デイトナ200 マイル・レースでのCB750 Rのデビューウィンは、実際には薄氷を踏む思いで達成されたものだった。
■RSCのレーシング・キット
FIMの“F-IIフォーミュラ750 ”とは、200 台以上量産された市販車用エンジン(F-IIは750ccまで)を用いた“市販車改造クラス”で、エンジンの基本構造(シリンダ、シリンダヘッド、クランクシャフト)に変更がなければOKという、改造制限がゆるやかなカテゴリーだった。並列4気筒エンジンを搭載してデビューしたCB750 は、このF㈼クラスの恰好の素材となった。だが、1967年を最後にGPレースから完全撤退していたホンダは、あくまでもレース復帰に慎重だった。 そこでホンダ本社にかわってCB750 のレース参加を全面的にバックアップしたのが、RSC(レーシング・サービス・クラブ)だった。1971年8月の鈴鹿“10時間”耐久ロードレースには、そのRSC製レーシング・キットを組み込んだワークス・レプリカ仕様のCB750 R(90ps/9500rpm )がデビュー、前年のウィニング・コンビの隅谷守男/菱木哲哉組が2年連続で勝利を勝ち取った。このレーシング・キットはその後、RSCからホンダ系プライベーターにリリースされ、チューンの差こそあったが、数多くのCB750 R“仕様”が全日本選手権やAMAシリーズに参戦することになった。
■2サイクル旋風とCB750 Rの最期
1971年のデイトナにホンダ・ワークスの姿はなく、かわってアメリカ・ホンダがサポートしたのは、コンストラクターのヨシムラがチューンしたCB750 だった。この「ヨシムラ・ホンダCB750 」は、4into1のエキパイを装着して、最高出力は96ps/9600rpm を発生していた。しかし、ゲーリー・フィッシャーとロジャー・レイマンが乗ったヨシムラ・ホンダCB750 は、レース序盤こそトップを快走したが、相次ぐエンジントラブルで2台とも完走を果たせなかった。翌1972年のデイトナ200 マイルは、日本製2サイクル・レーサーの台頭が注目された。なかでもスズキTR750 (XR11)とカワサキH2Rのスピードは圧倒的で、両者は熾烈なトップ争いを展開した。しかし、100 馬力オーバーといわれた強烈な2サイクル・パワーにタイヤバーストが続発して、スズキとカワサキのワークス・チームは自滅を余儀なくされた。その結果、この年の栄冠は、市販レーサーのヤマハTR3(350át) に乗るドン・エムデの頭上に輝いた。日本製2サイクル・レーサーの大躍進を横目に、1972年のデイトナを傍観したホンダ陣営だったが、翌1973年はRSCで熟成された100 馬力仕様のCB750 Rを投入、王座奪還に執念をみせた。ライダーは、開発を担当した隅谷守男に加えて、ロジャー・レイマンとS・マクローフィン。しかし、軽くパワフルな2サイクル・レーサーを相手にCB750 Rは苦戦を強いられ、隅谷が6位、マクローフィンが10位でフィニッシュするのがやっとという有り様だった。スズキTR750 、カワサキH2R、ヤマハYZR750 (0W19) といった2サイクルの超弩級モンスターを前に、デイトナレーサーと呼ばれたCB750 Rの劣勢は、もはや誰の目にも明らかとなっていた。
■ヨーロッパで大人気の耐久レース
ヨーロッパ大陸では伝統的に耐久レースの人気が高いが、フランスのホンダ系ディーラーとして知られる“ジャポート”は、独自にCB750 ベースの耐久レーサーを開発して、1969、1972、1973年のボルドール24時間レースを制覇していた。このジャポートのマシンは、ボアを61.5mmから70mmに拡大した969.8cc仕様で、ヨーロッパの耐久レースにおけるホンダの旗頭といった存在だった。だが、カワサキから900ccのDOHC並列4気筒を搭載したZ1が発売されると、耐久レースの勢力地図は一変することになった。1974年のヨーロッパ耐久選手権では、エグリ・ホンダからエグリ・カワサキZ1にマシンをチェンジしたゴディエ/デュヌーが連戦連勝の末にチャンピオンを獲得、カワサキZ1時代の到来を予感させた。こうした事態を憂慮したホンダ・フランスの要請を受けて、CB500RのパワーユニットをCB750Rのフレームに搭載した耐久レーサーが製作されることになった。エンジンはSOHCながら、シリンダ当たり吸気2、排気1の3バルブヘッドを持つ最新仕様で、当初は689cc(66 mm×50.4mm) だった排気量も、最終的に771.82cc(66mm×56.4mm) まで拡大され、最高出力は100ps/10500rpm を絞り出していた。しかし、こうした苦肉の策も、勢いに乗るカワサキのZ1軍団には通用しなかった。ヨシムラで組まれたZ1のエンジンは、フルスケールの998ccまで排気量アップされて、最高出力は105 ps/8500 rpm を発生していたのだ。RSCチューンのマシンを投入したにもかかわらず、1975年の耐久シリーズは再び、ディーラー・チームの“シデム・カワサキ”の圧勝のうちに幕を閉じることになった。
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