KAWASAKI カワサキ500-SS MACH3/世界最速を目指した“ブルーストリーク“カワサキ・マッハ伝説

KAWASAKI カワサキ500-SS MACH3/世界最速を目指した“ブルーストリーク“カワサキ・マッハ伝説

 90年代初頭の「レーサーレプリカ」の衰退に、寂しげな思いをしている若者は多いことと思う。2サイクルの刺激的なパワーフィールは、なりを潜め、街にはネイキッドやアメリカンに傾倒していった若者達の群れで溢れ返っている。バイクがファッションのアイテムの一つとして受入れられたことは、そこに市民権を得たとも言える現象を伺いとることもできる。が、果して、暴走族ではなくとも、群れをなしている若者たちを、あるいは轟音をまき散らして集団走行を図る若者たちを、素直な気持ちで市民は支持をしてくれるのだろうか。

 バイクは元来が独りよがりの乗物である。しかるに、ライダーがマシンに対する認識を高めていくことで、自己のレベルの向上も図れると思うのだ。が、いささか流行に敏感過ぎる若者に至っては、バイクの本質に近づく過程の喜びを見いだせないでいるようにも思える。個性というものを、飾りたてることで表現し、他人の意識を自己に向かせようとしているのだろう。が、他人の目線に踊らされているライダーなんて、ちっともカッコ良くはない。どんなバイクをどう楽しもうが勝手ではあるのだ。が、走りの本質とはかけ離れたところでバイクを楽しむは、やはり危険であると思う。自分なりの走りに適したバイクを見つけられた上での改造であれば、何も言うことはないのだが…さて、本題の「マッハ」に関してだが、正に個性的と言うに相応しいモデルである。それも走りに関しても一種独特の味わいを持っている。

 2サイクルが、 4サイクルと比較されながらも良きライバル同志だった頃、そこには2サイクルらしさと言う表現が生かされていた。少ない排気量で、上級モデルを追い回すには恰好の機構だった。メカニカルパーツに複雑な構図を用いることなく、発生させたパワーを最大限に生かすことが可能。この機構は最大の魅力だった。

 明石発動機(明発・メイハツ)→川崎明発工業を経て、カワサキ初のオリジナルブラントの完成車B-7が1961年に発表。以来、カワサキはひたすら2サイクルの開発を行っていった。途中、提携を行ったメグロ製のパワーユニットが生かされることもあった。が、前身の「メイハツ」時代の名残は、軽量の12 5ccクラスまでに見受けられるだけで、独自の個性的なパワーユニットが60年代を期に数多く生み出されていった。

 カワサキの2サイクルが名声を高めたのは、 1963年に発売された「カワサキ125 B-8」。パワーユニットはB-7をベースとしながらも、サスペンションの改良(ボトムリンク→テレスコピック)を行い、走行性能が飛躍的に高まっている。このモデルは、その後のカワサキ2サイクル・スピリッツには欠かせないモデルとなっている。カワサキとしては、このB-8に社運を賭けて発売に踏み切っているからだ。「_*5000台作って売れなければ、単車は止めよう。」との厳しい状況にまで追い込まれていた。が、予想外と言うには失礼な話だが、実際にB-8は期待以上の実績を残していった。翌年には、初の市販モトクロッサー「B-8M」がデビュー。レース界にカワサキワークスありきとも言わしめた“赤タンクチーム“が、その色鮮やかな功績を軌跡に記している。

 1966年、カワサキは「メグロK-1」をベースに、国産バーチカル・ツインの代名詞とも言わしめた「カワサキ650 W-1」を発売。その後、1968年にホンダが「CB750four 」をデビューさせるまで、この「W1(ダブワン)」は、当時4サイクルのドル箱的存在とも言われ、エンスーの支持の元に市場を圧巻していた。

 これと時期を同じくして、 2サイクルに活路を見いだしたカワサキは、「カワサキ250 A1 」をデビュー。“SAMURAI(サムライ)“と呼ばれたこのモデルは、そのスポーツ性において絶賛され、カワサキの名声を一躍高め、世界に飛躍する第一歩を記すこととなった。

 1967年には、A1をボアアップして338ccとした「A7 (アベンジャー)」をデビュー。この時期カワサキは既に「世界最速のモーターサイクル」の開発をターゲットに2サイクルの革新的なパワーユニットの模索を進めていた。

 A-1の延長線上にあるA-7に、カワサキ陣営は多くの期待をしてはいなかった。US市場の重要性を把握すればするほど、より多くの魅力を持ったオートバイが必要だったからだ。USカワサキが、全米各地のハーレー・デーラーの中から約30店をリストアップし、ニューマシンに関する要望の調査を行った。当時のUSカワサキがまとめた、次期ロードスポーツに対する仕様要求は、要約すると以下の通りであった。

●SS4/1マイル加速12秒台、

●トップスピード120マイル以上。

●最高出力50hp以上。

●斬新なスタイルと新機構搭載。

●大排気量、低価格。

● レーサーへの展開が可能。

● 輸出開始1969年1月。

以上、この要求に対しカワサキは単純にして明快な結論を出した。“世界一速いオートバイ“であれば間違いなく売れる。こういう確信に至った。

 この当時、世界最速のオートバイと言えば、英国の名門トライアンフの「T120 」だった。そして、アメリカ人がもっとも好むロードスポーツ・モデルと言えば、「ハーレー・スポーツスター(900cc) 」。 4サイクルが主流だった頃のことであるから、ある種の危険性をはらんだ判断でもあった。が、 2サイクルの出力面での優位性をもって、最速のオートバイを開発することを決断した。ロードスポーツモデルの世界基準の排気量を500 〜750ccと定め、敢えて500ccを選んだ理由には、軽量化という面でのメリットの追求もあった。しかし、ライバルとなる4サイクルが750cc以上の排気量にあることを思えば、技術面でこれまでより高いレベルが要求されることは間違いなかった。量産モデルとしては、これまでにない未知の領域への挑戦となる程の困難さがあったと言われている。

USカワサキからの仕様要求に添って進めれることとなった、大型ロードスポーツの開発計画は、社内コード「N100設計計画」と呼ばれることとなる。

 1967年9月付けのN100設計計画は、1.基本方針、2.試作機種に関する方針、3.気筒容積に関した方針、4.計画性能、5.諸元、以上の5項目からなっていた。

カワサキ技術陣が、先ず始めに描いた大型ロードスポーツのイメージとは、どう言うコンセプトから成り立っていたのか。 5項目の中から興味深い項目を抜粋して、原文のまま紹介したい。

1.基本方針

輸出向きを主眼とし、500cc級スポーツ専用で、世界最高の性能を狙う。低廉なるべく努力はするが性能第一主義を採り、性能を犠牲にしてまでCOST−DOWNは考えない。スポーツ車として他社の追従を許さぬ画期的にして豪華なものとして、主として米国市場における次期主力製品とする。

(狙い)350cc級より僅かにCOST−UPで、50 hp以上の出力を有する機種が希望であり、250cc〜350cc級のUSERの移行を期待するとともに、 4サイクル650cc級に比して極めて廉価であり、尚も同等以上の性能を発揮することによって此の層への浸透も計る。

更に、此の機種にはHIGH−WAYを充分余裕を持って走行すること及び、500cc級RACEでの活躍を期待している。

 以上が、第1項である。計画書ということもあってビジネスライクな文章ではある。が、当時のカワサキ技術陣の意気込みが生々しく伝わってくる。次期主力製品となるオートバイは、後発メーカーのカワサキにとって、勝負を賭けた切り札とも言えるロードスポーツだったのである。

 N100設計計画は、“ミスターHP”の異名を持つ大槻幸雄を中心に、エンジン設計を松本博之、車体設計を富樫俊雄が担当し、強力に推進された。設計が立案された当時、N100設計計画グループは、大型ロードスポーツの総排気量を500 〜750ccと考えていた。と言うのも、世界的な傾向として大型ロードスポーツの排気量は、それまで一般的だった650cc 〜750ccへと、大排気量化が進行中だったのである。文字通り世界最速を目指すのであれば、これら英国製ロードスポーツと同排気量の750c c案が有力と思われた。しかし、計画グループは最終的に、次期主力モデルの排気量を50 0ccに決定した。

 理由は数々あった。それまで、650ccのW1の経験があったとはいえ、本格的なロードスポーツとしては、350ccまでのノウハウしか持っていなかったカワサキとしては、一挙に倍以上のオートバイをつくるには技術的な障害が多すぎたとも言える。しかし、最終的に500cc案に決定した主因は、オートバイ全体の軽量化が必要と判断されたためだった。いかにハイパワーでも、重く大きいオートバイでは、操作性の面で難問ありと計画グループは考えたのである。また、500cc級のレーサーへの展開という販売戦略上の方針も、排気量の決定には大きく影響していたは言うまでもない。ともあれ、250ccのハンディキャップをはね除けて、世界最速のパワーユニットを開発するためには、より高性能が要求されることとなる。そこで、計画グループはリッター辺りの出力を120hpに設定し直し、次期ロードスポーツ用エンジンの開発をスタートさせた。

 マッハ3の発売計画がスタートした頃の量産オートバイ用エンジンは、比較的高い性能を持ったロードスポーツ車用であっても、リッター辺りで70ps〜100ps 。市販ロードスポーツの世界記録を誇っていたトライアンフの2気筒エンジンで、リッターあたり80ps。国内ではホンダCB450がDOHCの高性能を利しても、リッターあたり101psがせいぜい。カワサキが目標とした500ccで60psという数値は、リッターあたり120psという不可能にも思えるものだった。

 A1で培ったロータリーバルブを生かすことも当初は検討された。A7をスケールアップした2気筒も試作されている。しかし、 2気筒とするには目的出力の数値が負担となることは予測されていた。ビック・ボアのエンジンには冷却の問題が付きまとうし、ストロークを延長することで、ピストンスピードの限界によるメカロスの問題も発生。振動の問題_竄ニ様々な要因を検討すれば、 3気筒が最も有力な手段と推測もされた。

先行して開発されたのは3気筒。 2気筒は、 1カ月遅れのペースで試作が始まった。この点の経緯に関しては、エンジン設計の担当/松本博之氏が、当社のインタビュー時に語ってくれている。

「経験のない3気筒をやるとなるとあまりに賭が大きい。設計者から言えば、100 %

安全を図るなら2気筒だった。」

 「軽量、性能の要求を考えると、邪道かも知れないが、 3気筒にしなければ間に合わないということです、設計上でね。 3気筒にするにあたっては、上からの支持もありまして、腹をくくって始めました。 3気筒をやるとなると、今までの経験を踏襲していたのでは、モノにならないのです。A1 Rの3気筒モデルを造りまして、エンジンの幅、中央シリンダーの冷却問題等、全て風洞実験しました。当初は、中央シリンダーを前に倒したV 3なんて計画も、あったんですよ。結局、風洞実験の結果、インラインでOKということになって、本格的にスタートしたんです。」 3気筒は、営業的な配慮の上での決定だった。後発メーカーゆえの特色を、なんとか造りだそうとする意欲的な考えが優先された訳だ。

 開発では様々な問題点を露呈していく。並列を選んだにしても、中央シリンダーへの冷却に不安も生じた。そして、前傾15度のシリンダー配置が最も理想的と判断されるに至るのに2カ月の月日を要していた。試作エンジンがベンチ上でテストされる段に至ってもトラブルは発生した。コンロッドの大端部の焼きつきやマイナーなトラブルに見回れながらも初のトリプル・シリンダーは目標とする数値を確実に取り込むことが出来るまでに至っていった。始めて火が入れられてからおよそ一ヵ月後、650ccのW1を優に上回る性能が確認されるようになり、開発は一段とそのテンポを早めていった。

 ベンチでの出力テストを終え、工場内でのテスト走行に入ると、「マッハ3」は、その凶暴な一面を暴くこととなる。市販タイヤ中最高と折り紙付きの日本ダンロップ製K70が、時速200km/hの壁を突き破るに障害となってしまった。「マッハ3」の動力性能に耐えられずに、トレッドの剥離が続出。急遽、ナイロンコードのH規格タイヤK77が、日本ダンロップで用意された経緯も語り種として残っている。

 テスト走行も最終段階に入り、谷田部や名神高速で試作車は実走テストが繰り返された。一目を避ける為にテスト車は真っ黒に塗装される。が、かえって大胆な試みとマニアの眼には映ったはずだ。“未来の設計が生んだ大胆な黒の疾走車“というキャッチフレーズは、このテスト段階の「マッハ3」のイメージをつぶさに表現していると言えるものだ。が、この間、エキゾーストは4本のシンメトリーもトライされている。これは、アメリカからの要求であったとされる。が、カワサキは、敢えてシリンダーを象徴するアン・シンメトリーを選択。アンバランスな一面を強調することで、かえって軽快感を生み出していたことは確かだった。この後、米国でのテストを終えた「マッハ3」は、1968年9月から正式な生産が始まっている。市販に先立って、何台からヨーロッパのデーラーに向けてサンプル輸出される。カワサキとしては、新ロードスポーツに対する各国の反応を、つぶさに知る必要があった。

 ヨーロッパのマニアは、まずスタイルに目を奪われた。白く塗られたタンクにブルーのストライプ。 3気筒のシリンダーを象徴するアンシンメトリーのマフラーは、充分過ぎるほどの軽快感を漂わせていた。そして、これまでに経験したことの無いような、圧倒的なパフォーマンスに度肝を抜かれることとなる。

それでも、後に登場する国内及びアメリカ仕様と較べると、このヨーロッパ仕様はおとなしい印象にあった。H1−KAと呼ばれた初期のヨーロッパ仕様は、オーソドックスなバッテリー点火を採用しており、キャブレターのセッティングも比較的穏やかであった。ヨーロッパでの公開から半年後、1969年9月に「マッハ3」は本格的に市販が開始された。

 国内デビューを果たしたのは、ヨーロッパでのデビューから半年後のことだった。それは、開発計画がスタートしてから、既に2年の歳月を経ていた。世界最速の目的意図にそって完璧に仕上げられた最強の世界戦略モデルとなった。

 日本での正式な車名は、「 500SSマッハ3」。カラーリングは“ピーコックグレー”と呼んだパールメタリックのダークグレーに、ブラックのストライプを配した重厚な印象とし、テスト時の「黒の疾走車」をイメージする大胆なモデルに仕上げられていた。

 トリプル・シリンダーといい、左右非対象のエキゾーストマフラー。レーサーにしか採用されていなかったCDI点火等、マニアを刺激するに充分な内容を持っていた。そして、なによりもの魅力はゼロヨンを12秒4で走りきる駿足であった。 2サイクルの特徴的な出力特性を生かし、パワーバンドの窮屈感も承知の上で、その瞬発力を楽しんでいた。役にも立たないような低回転域のトルクも、それなりのものと素直な気持ちで受け止めていた。 6,000rpmからの強烈な加速と雄叫びとも言えるそのエキゾーストノート。それが「マッハ3」の全てだった。

 点火系にCDIを採用したのは、確実な着火を望んだからに過ぎない。高回転域は勿論のこと、低回転域にもカブリのないことが条件だった。CDIの点火エネルギーは2万5, 000 V以上。通常のポイント式の2倍以上の容量を持っている。無接点式で、ポイントの汚れや磨耗に対するトラブル処置を行うことなく、正確な点火時期の調整を保てるのが特徴で、始動性もすこぶる良好だった。

 先にも記したように、一部の車種にポイント式が確認されているが、このモデルに関してはキャブレター(ミクニ製VM28型)のセッティングも異なり、ヨーロッパ仕様ではメインジェットを92.5#を使用。これ以降のモデルでは100 #を設定している。

 CDI本体は熱の影響を受けやすく、横開きのシート下に配置。冷却の為に、ガソリンタンク底には通風用の凹みを設けている程。CDI用のシグナルジェネレーターは、発電機と共にクランクシャフト左側に設けられており、クランクシャフト一回転毎に、イグニッションコイルからは30 KV( 3万ボルト)という高圧電流が3回発生させられている。これはプラグにかかる電圧で、プラグにはNGK製の沿面プラグが指定されている。

 この決定的とも言える点火システムにも、実は僅かながら欠点が指摘された。バッテリーからの直流12Vは、一度交流400 Vに変換。再度直流400Vに整流されコンデンサーに蓄えられる。が、この蓄電された電圧をイグニッションコイルの一次回路に放電させているのがサイリスタというパーツ。ピックアップコイルの内側で回転する永久磁石によって微小の電圧を発生させ、これを信号源としてサイリスタがスイッチの役割を行っている。このサイリスタの作動するタイミングに狂いが生じ、異常燃焼を引き起こしてしまうという問題があった。これは、電気回路上にあるコネクターの接続状態に影響を受けたもので、振動による緩みにもダメージを受けることがあった。また、バッテリーの+−の接続にも細心の注意を要するものだった。

 ともあれ、パワー優先の時代を背景に、個性的で刺激的なパワーユニットは大いに支持されていった。

 「マッハ3」の高性能は、全世界を圧倒する勢いで、その評価を高めていった。USカワサキにおいては、H 1をベースとしたマシンをレースに投入。デビューした年の“デイトナ200マイル“では、結果的には17位でレースを終えるも、その非凡なポテンシャルを大いに見せつけることに成功している。

ボア&ストロークは共通の60×58.8mm、車重112kg 、最高出力は公称で75ps/9,000rpm 、最高速度245km/hと、当時としては文句の付けられないデーターを記録している。

 H 1のレーサーが、そのハイポテンシャルで注目を集めたのに伴い、カワサキは、そのスタイリングでも目立った存在となった。マシンばかりでなく、ヘルメットやレーシングスーツにもグリーンで統一したカラーリングを採用。欧米では告別式を象徴するカラーリングでもあったために、不気味な存在にも映ったかも知れない。しかし、これを期にカワサキはワークス・カラーをグリーンに決定。以降、カワサキ・ワークスは世界中に旋風を巻き起こす存在となっていく。

 H 1用のレーシングパーツの製作を計画していたカワサキにとって、プライベーター達の技術的な問題が懸念された。技術的なノウハウを持たない人達にとって、マシンのポテンシャルのレベルアップを図ることは、大変な苦労となる。ならば、完成車両(市販レーサー)として提供する方が最もと判断した。クランクシャフトを強化し、クロスミッションを装備した市販レーサー(H1-R)がデビューしたのは、1970年である。φ30mmのキャブレターと乾式クラッチを装備。ジャジャ馬ぶりはサーキットでも評判となった。

 アメリカでは、H1-Rは15台がプライベーターのチームに渡り、中でもテキサス生まれのラマティー・ブラッドレーが、デイトナの100マイルレースでコースレコードで優勝したのを皮切りに、AMAナショナル・チャンピオン・ロードレースを完全制覇。

 また、一方では世界GPに挑戦する機会を得たH1-Rがあった。ブルタコのレーサーでGPに参戦していたニュージーランド人のジンジャー・モロイは、当時のチャンピオンマシンMVの前に苦戦を強いられていた。シーズ第2戦のフランスGPからH1-Rを得たジンジャーは、この時MVに次いで2位を獲得。続くスペインGPでも2位で快走。優勝こそ飾れなかったものの、後半戦のフィンランドGP、北アイルランドGPでも2位に入り込む健闘を見せた。しかし、この時のH1-Rは、ブルタコのエンジニアのアドバイスを受けてチューンされていたというから、GPも随分と和やかでヒューマニズムに溢れていたものと感心させられる。H1-Rに注目の眼差しを送っていたのは、他にも有名な「シデム社」があり、耐久レースにも参戦。数々のレース活動を通して、H1の評価は世界中を一気に駆け巡っていった。

 翌1971年にはH1-RAへ発展し、ポイント点火をCDIに改め、エキスパンションチャンバーの改良等で、80ps以上の出力向上が図られていた。都合10台がアメリカでプライベーターの手に渡っている。プライベーターのマシンとは違い、H1-RASも存在する。が、これはワークスモデルに与えられた呼称。エースライダーはフランス系カナダ人のイボン・デュハメルで、この年のAMAでは2勝を挙げている。

 1972年、750ccにグレードアップされたH 2-Rがデビュー。AMAシリーズむけに開発されたマシンは、ボア&ストロークを71×63 mmとし、出力は100ps/9,000rpmをクリアー。最高速度は、優に270km/hを越えていた。このマシンこそが“グリーン・モンスター”の異名をとった驚異のマシンである。

 ピークパワーの絶大さこそが、勝利へのアドバンテージと解釈されていた頃であるから、出力特性がどうのこうのと言う前に、如何にパワーを引き出すかに技術陣は躍起になっていたと伺わせる。このマシンに接してきたライダーの口からは、恐ろしいと思わせる程の体験が幾つも語られる。「_竅Aカワサキの工場レーサーは日本一の速さであったことは間違いない。しかし、乗りこなせるかどうかは別。」「あれは、バケモノでした。」トップレベルのライダーをしても、こう語らせるH 2-Rには、我々の想像を越えるインパクトがあったに違いない。当初、H2-Rはピストンピンにクラックが入るという持病があった。これは、当時の2サイクル・エンジンに共通した問題でもあった。今日のように、掃気形状が煮詰められる以前では、シリンダー内の冷却にムラが生じ熱的な歪みが原因となったと推測される。こうしたトラブルも次第に解消され、H2-Rは本来の力を発揮し始めた。やがて、水冷化の波が次第に訪れようとしていた1975年。 2サイクル3気筒レーサーは、KR750と名称を変えて、115ps/11,000rpmまでのスペックをたたき出すに至った。空冷のトリプルは、既に時代の片隅へと追いやられていった。称賛とも言いがたい言葉ではあった。が、ライダーに「バケモノ」と言わしめたH2-Rには、カワサキの溢れんばかりの渾身のスピリッツが表現されていた。

 全ては、H1の卓越した動力性能が可能にしたことではある。世界中のライダーが絶賛した性能は、今や250ccのレーサーレプリカでさえも可能な時代となった。しかし、誰にでも扱えるようになったマシンには、技術的な進歩に対する信頼こそあれ、個性的な表情が失われてしまっていた。内面に潜むべき愛おしい性格を、表向きの容姿に変えてしまった今のレーサー・レプリカに苦言を呈す訳ではない。が、挑戦的であった技術者に、営業の一端を任せて開発を行っているような風潮が見受けられるような時代になってしまったことを寂しく思う。売るためには、⑾どのようなスタイルが好ましいか。⑿どのような色が好まれるのか。_笂凵Aユーザーの意識調査を無駄とは思わないが、製作者のポリシーはどうなってしまったのだろうか。数多くのオートバイが、総合カタログを埋め尽くすようにラインナップされ、ユーザーは、あらゆる角度から検討できるようになった。そして、多くのユーザーを獲得すべく、メーカーはあらゆるジャンルのモデルをもフルラインナップして対処を図ろうとする。一台でも多くの商品を売ろうとするのは分かる。だが、本当にメーカー自らが売りたいと願うモデルが一体どれなのか表現されてはいない。ネイキッドが売れると思えば、同じジャンルにラインナップを増やし、アメリカンが良いといえばそれを生産ラインに乗せる。ユーザーにとっては、一見好ましい現象に思えるかも知れない。が、アパレル関連の商品のように、簡単に流行に導かれて商品を買換える訳にはいかない。次から次へと新製品が出る度に、自分の持っている商品の価値が下がってしまうような錯覚にもなる。これでは、レーサーレプリカが歩んだ衰退への道行と何ら違いもなくなる。単なる、一商品のユーザーではなく、ライダーとなれば、それなりの自覚を要するものだし、信念に通じる一徹さもある。それを裏切るようでは、メーカーの信頼を存続させることは不可能になってしまうのではないだろうか。

 「マッハ3」は1969年に忽然と表れ、世界中のライダーを圧巻した。世界一速いオートバイとして誕生しながらも、リーズナブルで国内価格/29万6千円、US市場で995ドル(約36万円)と、H1人気に拍車をかけた。デビューの年に早くもマイナーチェンジを受け、CDIのデスブカバーを変更。リークの原因として考えられた防水対策として、雨水の進入を防ぐゴムクアップが、デスビカバーの高圧コード取り出し口に親切され、更に、水抜きも追加された。タンクのカラーリングは、赤に白のストライプを配し、直進性を考慮されてフロントタイヤはF3に、リアはK 87に改められている。

 1970年9月、これまで特徴としていたタンクのリブを廃している。ニーグリップ部のリブがヨーロッパを中心に不評をかっていたためとされている。が、これは、USカワサキの日系二世のデザインによる。発注は、フレームもエンジンもなく、単体によるもので、かなりロングタンクに仕上げられたものに、メーカー側で修正を加えて完成に導いている。レーシングモデルとの意識でデザインされたとなれば、ニーグリップ部の変形も意識的に作られたものでもあり、決して不似合いなものでもない。ただし、様々な使用条件をあてがわれる一般の使用では、ライダーの体格差もあり、リブに不快感を示す者がいても不思議はない。ともあれ、今になってみれば、この特徴的なリブが初期型の象徴ともされて重宝がられているのだから楽しい。だが、実際には、リブを残すことによりタンクのグラフィックにデザイン上の制約を受けてしまうとの判断があったからではないかとの推測もある。これ以降、タンクには様々なグラフィックが描かれていく。

 71年前期型からは、車名をH 1Aに変更。兄弟車の一号となる「 350SSマッハ2」も発売され、着々とシリーズ化への発展を図られていく。「S2」とも呼ばれたこのモデルは、H1と同じく120度クランクの3気筒のパワーユニットを持ち、0 →400m加速を13.6秒、最高速度178km/hとクラス最強の快速ランナーとなった。特徴的なのは、テールにいち早くカウルを装着したこと。これが中々に受けて、“テールアップGT”との愛称で持て囃されてもいた。また、翌1972年、末弟の「250 SSマッハ1(S1 )」もデビュー。「マッハ」に浸透する若者が急加速で増殖していった。

 1971年10月、「東京モーターショー」では史上最速のプロダクション・マシン、750ccの「マッハ4(H2 )」が発表された。0 → 400mを12.0秒で駆け抜け、203km/hの最高速度を記録するモンスターマシンだった。

「 マッハ3」を越える世界最速のマシンは、やはり「マッハ」でしかなかった。ヨーロッパ仕様では、実に220km/hをクリアーするトップスピードを誇り、絶妙なブレーキバランスと相まって快速性を意のままにしていた。重量級のマシンが多い中で、「マッハ4」はやはり異色の存在でもあった。ハンドリングの軽快感は元より、その操縦性も素直なものだった。「マッハ」が気違い染みたマシンであったというよりは、万人向きではなかったと言った方が適切であるのかも知れない。そこには、それまでに体験し得たことのないスピード域を目指すべく技術開発が行われ、パワー優先の数値目標が掲げられていたからにすぎない。ライバルメーカーのフラッグマシンに、一歩でも抜きんでた数値を稼ぎだそうと必死の努力があった。「 500SSマッハ3」で最速を究めながら、「ホンダCB750f our 」にスピードでピッタリと並ばれたからには、「マッハシリーズ」を主軸に発展を図ろうとするカワサキにとって、営業面でのマイナスイメージ映ったことだろう。世界市場が、750ccを基準にビッグバイクの展開を図るとするならば、「マッハ3」がその決定的なパワーでいくら優勢を誇ったとしても、一時的なものでしかないことを悟っていた。カワサキにとって、「マッハ4(H2 )」はシリーズ最後の切り札だった。

 しかし、レース史に輝かしい1ページを残しながらも、その圧倒的なパフォーマンスを人々の眼に焼きつかせながらも、個性を望べくもない方向へと、時代は大きく移り変わろうとしていた。レーシングスピリットで磨き上げられたシビアなレスポンスは、やがてその圧倒的なパワーをマイルドな特性へと変換していった。白蝋色の煙りと、あの気高いエキゾーストサウンドは、幻想でしかなかったかのように、やがて語り継がれていくだけとなってしまった。

 H2は1973年7月モデルを最後に生産を終え。HIはH1 Fを最終モデルとして、1976年4月発売のKH500に名称を変更。 350SS(S2 )も1973年2月発売モデルを最後に、 1974年1月からはKH400に名称変更。 250SSも、1974年11月発売モデルを最終型として、1976年2月発売のKH250に後身を預けている。

歴史は、一つの時代に幕を下ろした。が、KHとて歴代市販車唯一の空冷2サイクル・トリプルシリンダーを誇らしげに飾るばかりでなく、決してカワサキに傾倒したライダーを裏切ることはなかった。

 1977年、KHA8は、500ccの3気筒最後のロードスポーツとしてKHA9を生み出した。それは、既に何の変更もなく、依然として人気のあったフランスを中心としたヨーロッパと、日本市場のみで販売された。そして1979年、マッハ3の末孫(KH250 )は、KH400と共に同じデカールを施したライムグリーンに塗装され、10年に及んだマッハ3の歴史に自ら重いベールを落とした。

風倶楽部

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