黄金の'60年代…その5
'64(昭和39年)
東京オリンピックのお祭り気分のなか、
分離給油方式が2stの新時代を切り開いた
'64年は東京オリンピックに日本中が沸き立った年である。エチオピアの生んだマラソン界のスーパースター、アベベ・ビキラが甲州街道をひた走り、チェコの名花ベラ・チャスラフスカが、華麗に舞った。日本女子バレーボールチーム『東洋の魔女』を率いた大松博文監督の「俺についてこい!」が流行語となり、ウルトラC…と言う新語が生まれたのも東京オリンピックだった。
国中全てがオリンピックを中心に動いているようだった。世界に日本の技術力を誇示した『東海道新幹線』が完成したのも、この年である。また、名神高速道路も全面開通している。そればかりではない。東京を中心とした都市部も大幅に整備された。要するに、オリンピックを観戦に訪日するであろう大勢の外国人観光客の手前、東京が化粧直ししたのである。
実際、オリンピックを境に東京の町並みは様変わりした。それまでの東京は、はっきり言って貧しかった。東京だけではなく、オリンピックを機に日本全体が変り始めたと言えるかも知れない。
高度成長を続けた日本はこの年、国際通貨基金(IMF)の8条国に移行、世界のお金持ちの国の仲間入りも果たしている。経済大国への道をひた走る日本の原動力は、鉄鋼から自動車へと変わろうともしていた。'64年、日本の自動車生産は、年間100万台を突破('63年)し、世界第4位となった。更に、二輪車の生産はこの年には200万台を超えるまでにもなっていた。
ホンダは、F-1レースに出場を宣言するなど、前年に引き続き四輪車に力を注いでいたが、7月に待望のニューモデルを発表している。ベンリーCS90(90cc)である。CS90は、独特の鋼管プレス製Tボーンフレームを特徴とし、プレス・フレームでありながら後フェンダーを独立させた軽快なデザインであった。また、このクラスとしては初の総アルミ製OHCエンジンを搭載。パワフルな上に非常にタフなエンジンで、軽快な操縦性と相まって財布の軽い若いライダーの熱烈な支持を受けた。
一方、2ストロークエンジンは、この年は画期的な進歩を遂げている。ヤマハが開発した2ストロークの技術革命とも言える『オートルーブ』が実用化されたのだ。オートルーブ以前の2ストロークエンジンは、燃料のガソリンに潤滑オイルを通常20:1の割合で混合していた。しかし、この混合比はエンジンに一番負担のかかる状態を想定したもので、負担の少ない状態では無駄な供給と成るばかりでなく、2ストロークエンジンに特有の白煙をまき散らす大気汚染の原因とされつつあった。オートルーブの実用化によって2ストロークの可能性はより確かなものと成ったと言えるであろう。
ロードレースのGPレーサーからフィードバックされた分離給油装置を市販車に初めて採用したのはYA-6(125cc)とYG-1D(80cc)と言う実用車だった。しかし、この両車は、やはりGPレーサーの技術とも言えるローダリー・バルブを採用するなどスポーツ性も高く、ロードレーサーやモトクロッサーの格好の改造ベースと成っていた。
次にオートルーブを採用したのは、スーパースポーツYDS2の後継モデルとなったYDS3(250cc)だった。YDS3は、オートルーブによるメンテナンスの簡略化と耐久性への信頼が評価され、日本ばかりでなくアメリカ市場でも大人気を博することになったのである。
'64年には、雑誌『平凡パンチ』が創刊された年でもある。当時、平凡パンチは若者文化に多大な影響を与えていた。デザイナー石津謙介氏が創設した『VAN』と言うファッションブランドが中心と成って『アイビールック』なるジャンルが形成され大流行。東京の銀座に『みゆき族』と呼ばれる若者の集団が形成され話題になったのもこの頃だった。
一方、ベトナムでは『トンキン湾事件』が勃発し、アメリカは本格的にベトナム戦争に介入しようとしていた。日本国内の太平ムードとは裏腹に、世界は暗い時代へと向かいつつあったのだ。
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