黄金の'60年代…その6

黄金の'60年代…その6

'65(昭和40年)

GSが空前のブームと成り、長髪が流行し…ロードスポーツは過激なまでに進化した

 池田内閣に代わって佐藤栄作内閣が誕生。時代は高度成長期から安定成長期へと移り変わった。佐藤首相は、それまで難航気味だった日韓会談にけりを付け、沖縄問題に積極的に対処するなど、高姿勢の外交を展開。時の流れはにわかに早まったようだった。二輪業界もこの年、画期的なニューモデルが次々とデビューし、激動期を迎えようとしていた。

 ホンダは、打倒ヨーロッパを目指して、これまで国産車では例のなかった大排気量ロードスポーツ『ドリームCB450(450cc)』を発売。マニアの度肝を抜くこととなった。CB450は、国産プロダクションモデル(量産車)としては初めてのDOHCを採用した意欲作で、ターゲットはイギリヅ製ロードスポーツを対抗としたものだった。『バイクの王様』のキャッチフレーズで登場したCB450は、その高性能ぶりを出来立ての高速道路などでいかん無く発揮し、マニアを異次元のスピードへと誘うことと成った。

 これに対し、スズキも負けてはいなかった。実績のあるGPレーサーから技術をフィードバックし、T20《X6ハスラー(250cc)》を開発。伝統の『コレダ号』の歴史にピリオドを打った。T20は、世界一速いクオーターとして250ccロードスポーツ車のトップを目指して開発された。当時としては珍しかった6速ミッションを駆使し、パワフルだがピーキーなエンジン性能を完璧に引き出せる腕前さえあれば、間違いなくライバル車の先頭を走ることが可能だった。主に、アメリカ市場をターゲットとして開発されたものだったが、その目的は完全に達成されたと言えるものとなった。実際に、アメリカ市場ではT20旋風が吹き荒れ、250ccクラスのスーパースポーツが大型車を向こうに回して大人気と成った。スズキはこの年、4輪部門でも『フロンテ800』を発表し、軽自動車メーカーからの脱却も図っていた。

 YDS3がスーパースポーツ・ブームの先駆けと成ったヤマハでは、この年、ステップスルー式のセミアンダーボーン型フレームをもつモペット『ヤマハ・メイトU5(50cc)』を発売。また、中間機種としては珍しい2気筒エンジンを搭載した『AT90(90cc)』を発表する等、実用車部門の充実化に向けて懸命な動きを見せていた。その一方で、YM1(300cc)を開発して、ホンダの大排気量化に対抗する姿勢も顕著にしていた。

 '65年は、それまで実用車メーカーとして知られていたカワサキが、一躍ロードスポーツ部門への進出の気配をみせた年でもあった。『赤タンク・レーサー(B1T/125cc)』の活躍等により、カワサキのイメージアップは着実に進行していたと言える。前年の自動車ショーから名称を一新した『第12回東京モーターショー』の会場には、B1Tばかりかカワサキ650メグロX(650cc)も展示され、カワサキのロードスポーツにかける意気込みを伺わせるものとなった。

 前年の名神高速道路に続き、'65年には片道6車線の高速道路『第三京浜』が完成するなど高速時代の到来につれ、高性能ロードスポーツの需要は急速に高まりつつあったのだ。また、この年に軽免許は普通運転免許証に改められ、原付二種以上の自動二輪免許が一本化されることにもなった。

 '65年の音楽界は、エレキギターが大流行。グループサウンズがブームとなって続々とグループが誕生して行った。それに伴い長髪が流行、街には髪の長い若者があふれ若者文化の到来も感じさせる時代でもあった。

 同じ長髪でも、アメリカの青年達の長髪には反戦の意思表示が込められたもので、この年、アメリカのベトナム介入は一段とエスカレート。北爆が開始され戦火の幕は切って落とされた。反戦歌手とも呼ばれたフォークの女王ジョーン・バエズのソプラノが全世界に空しく響き渡ったのもこの年だった。

ホンダ ドリームCB450

(リード)

スーパーカブC100 の爆発的な大ヒットに続き、次いで投入したCB72/77でも好評を博したホンダは、アメリカ市場でのシェアを着実に伸ばしていった。しかし、大型モーターサイクルの分野となると依然、イギリスやドイツといった欧州勢が強大な勢力を誇り、ホンダをはじめとする日本のメーカーは、小排気量クラスを独占するにとどまっていた。日本製は小排気量クラス、欧州製は大排気量クラスといった図式が、アメリカ市場では成立していたわけである。こうした状況を打破すべく、ホンダは初の大排気量モーターサイクルの開発に着手することになった。

(本文)

 当時、世界最速といわれていたのは、トライアンフ・ボンネビルであった。そこで、当面のターゲットをこの英国製ビッグ・ツインに絞って、“コンドル”と呼ばれたホンダの次期ロードスポーツ計画はスタートした。このコンドル計画は、ホンダにとって未知の分野への挑戦だった。有名な500 átの4気筒GPレーサー、RC180 のデビューは数年後のこと。ホンダは、まったくの白紙から大型モーターサイクルを開発することになったのである。

 英国製ビッグ・ツインを凌駕するには、どんなエンジンが必要なのか。コンドル計画のスタッフは日夜、模索を繰り返すことになった。こうした過程では、CB77をフルスケールの350 átまでボアアップする案も、真剣に検討された時期もあった、という。しかし、いかに名車とはいえ、既成モデルの改良案には、おのずと限界があった。いかにGPで鍛え上げたホンダの技術をしても、わずか350ccでは650cc相手に勝負になるはずがない。ライバルを越えるとはいわないまでも、同等の排気量のエンジンをつくれば性能的には問題ないはずなのだが、世界GPで技術力を証明していたホンダのエンジニアには、自負もあった。ホンダのテクノロジーをもってすれば、なにも650 ccの排気量は必要ない、というわけである。また、いきなり大型モーターサイクルを量産するとなると、多少の不安もあったといわれる。

 紆余曲折を経て、ホンダ初の大型ロードスポーツ、『ドリームCB450 』が公表されたのは、1965年 4月のことであった。国内のマニアには“鯨タンク”、海外では“キャメルタンク”と呼ばれることになる量感あふれるタンクを持ったCB450 は、CB72とも共通するホンダの流儀でつくられていた。強力なパワーに対処して、フレームはセミ・ダブルクレードル・タイプとなり、いかにも重厚なビッグ・ツインといった風情のCB450 は、自らを“オートバイの王様”と名乗り、“初心者には、おすすめできません”という宣伝コピーで、マニアの好奇心を煽った。

 しかし、この煽情的な宣伝文句とは別の意味で、たしかにCB450 は、初心者には難しいロードスポーツだったかもしれない。というのも、大パワーに対処して採用されたはずのセミ・ダブルクレードルのフレームが、それでもまだ、ビッグ・ツインのパワーに負けていたのである。CB450 のテスト段階で、はじめてウォブルを体験して肝を冷やしたという社内のテストライダーは、けっして少なくないと聞く。

 換言すれば、こうしたトラブルは、ひとえにエンジンの大パワーに起因していた。注目されたニュー大排気量エンジンは、量産車としては初のDOHCヘッドを持つ、ホンダらしい画期的なビッグ・ツインだった。70mm×57.8mmというショート・ストロークの並列2気筒エンジン(444 cc) は、最高出力43ps/8500rpm を絞りだしていた。これは、リッター当たり、およそ100 馬力というハイパワーで、当時としては異例の高性能であった。また、SS4 /1 マイルを13秒 9で駆け抜け、トップスピードは180 km/hに達するという動力性能は、目標としたトライアンフ・ボンネビルに勝とも劣らぬものであった。

 このDOHCエンジンは量産を前提として設計されたため、ホンダが得意としたレーサーのエンジンとは、まったく異なった構造になっていた。バルブ系には4輪のブラバム・ホンダF2の大躍進の原動力になったといわれる、トーションバー・スプリングが採用されていた。また、エキセントリック・シャフトを持つロッカーアームを介してバルブを駆動するメカニズムなどは、メンテナンス性の向上を目指したもので、当時としては世界に類をみないハイテクノロジーであった。

 CB450 の初期型はK0と呼ばれ、1968年には最高出力が45psにアップされ、ミッションが4段から5段に変更されたK1に発展した。鯨タンクにかわって涙型タンクが採用されたK1では、ホイールベースが25mm延長されて、直進時のスタビリティーが向上していた。CB450 はその後、エクステリアの意匠を大幅に変更したエクスポート、ナナハンのフロントフォークまわりをそっくり移植したセニアと、年をおってマイナーチェンジを繰り返し、最終的には懐古趣味的なブリティシュ・スタイルのCB500 Tへと発展したのを最後に、カタログから姿を消していった。また、CB450 の場合も、クランクシャフトの位相によって、タイプIとタイプIIのエンジンがあったが、K1からは、すべてのエンジンがタイプIIに統一されている。ホンダ初の大型ロードスポーツ、CB450 のDOHCツインは、200ccのハンディキャップをはねのけて欧州製650ccを超えるパワーを絞り出していたのだ。

T20

(リード)

1965年 5月、アメリカ市場を衝撃的なニュースが駆け抜けた。その発端となったのは、有力専門誌“サイクル・ワールド”に掲載された、1台の日本製モーターサイクルの試乗記事だった。誌上を飾ったモーターサイクルの名は、X6ハスラー。日本名を『T20』という250ccクラスのロードスポーツだった。CW誌はこのニューカマーを“500ccクラスに劣らない高性能車が登場した”と、手放しで絶賛したのである。

(本文)

 1960年代当初にはじまった250ccクラスのロードスポーツ・ブームに、スズキはただ一社、乗り遅れていた。実用車しか持たないスズキは、好調に販売実績を伸ばすホンダやヤマハに対向できる、本格的なロードスポーツの開発が急務となっていた。また、後発のカワサキの動向も、スズキの危機感をいっそう煽ることになった。

 T20の開発計画は、1963年にはスタートしていた。スズキでは、“世界最高水準の250ccクラス”の開発が至上命令とされていた。つまり、CB72、YDS1といった国内のライバル・メーカーの製品をターゲットに、これらを凌駕するロードスポーツの開発をめざしていたわけである。開発コードX6と呼ばれたこの計画はまた、アメリカという巨大マーケットで競争力を発揮できるモーターサイクルの開発でもあった。

 X6計画で設定された目標馬力は、リッター当たり100 馬力、つまり250ccで25馬力以上というものだった。この数値は、ライバル車を凌ぐ、当時の量産車としては途方もないものだった。こうした目標は、GPレースで培った様々なノウハウなしには、クリアできなかった。スリーブ入りアルミシリンダーやクランクシャフトへの分離給油潤滑(後のCCI)システムなど、最新のレーサー技術がおしげもなくフィードバックされて、X6のエンジンは、徐々に完成に近づいていったのてある。当初はまだ、セルミックスと呼ばれたCCIは、他社の分離給油方式がインレットに強制給油するのに対して、コンロッドのビッグエンドに強制給油するシステムで、クランクケース内で飛散したオイルがピストンとシリンダーウォールまわりを潤滑するという一歩進んだメカニズムだった。このCCIによって、スズキの2サイクル・エンジンは、宿命だった焼付きから完全に解放され、優れた耐久性を発揮することになったのである。X6は、完成間もない竜洋のテストコースで熟成された後、広大なアメリカ大陸でも入念な走行テストが行われた。慎重に、そして技術的には大胆に、X6は開発されていったのだ。そして、その成果が、冒頭のCW誌の試乗記事であった。

 対米輸出に遅れること2か月、7月に発売が開始されたT20は、みるからに個性的なロードスポーツだった。フレームには、スズキの量産モデルとしては初のパイプ製ダブルクレードル・タイプが採用されていた。また、2サイクル空冷2気筒エンジンは、ピストン・バルブ方式で25ps/8000 rpm を絞り出し、市販車初の6段ミッションを介して、最高速度は160km/hにまで達した。T20は、出力、最高速ともに、トップクラスの実力を有していた。CB72もYDSも、T20の前では顔色をなくすことになった。スズキが自信を持って投入したT20は、掛け値なしで世界一速い250ccロードスポーツとして、デビューを飾ったのである。

しかし、T20には、さらに驚くべきポテンシャルが秘められていた。デビューの翌1966年に登場したT21では、2サイクル・ツインの出力は30.5馬力にまで引き上げられていたのだ。これは、アメリカ仕様ともいえたX6ハスラーの29馬力仕様を元にチューニングされたものだった。T20が黒とクロームメッキを基調とするオーソドックスな塗装だったのに対して、T21はキャンディレッドとキャンディブルーという派手なカラーリングが施され、イメージは一新していた。

 そのスペックから連想されるとおり、T20/21 は、過激なロードスポーツだった。エンジンは4000rpm 以下ではまったく使いものにならず、最大トルクを発生する7000rpm 付近をキープすれば、3速でもフロントを容易に持ち上げた。高回転域でのレスポンスのよさは素晴らしく、このピーキーな出力特性がT20/21 の大きな魅力となっていた。また、T20/21 は、当時としてはバンク角も充分にとられていて、コーナーリング性能にも配慮の後がみられた。しかし、T20/21 は、高速コーナーでは独特な挙動を示し、馴れないライダーを恐怖に陥れることもあった。これは、今日の基準でいえば、明らかにフレーム剛性が不足していたためだった。換言すれば、スズキ初のロードスポーツは、完全にエンジンが車体に勝っていたといえそうだ。

 ともあれ、T20/21 は、パワフルな2サイクル・ツインを軽量コンパクトな車体につんだ、高性能ロードスポーツだった。0 〜400mを14秒台前半で駆け抜ける実力は、当時の街角では群を抜く存在だった。

風倶楽部

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