黄金の'60年代…その7

黄金の'60年代…その7

'66(昭和41年)

ミニスカートとビートルズと飛行機事故の年

一台のマシンの登場が波乱を巻き起こした。

 『ミニスカート』が大流行し、世の男達は眼のやり場に困った。この歓迎すべき現象は後日、『パンティーストッキング』の業界のやらせ…と判明ししたようだが、ともあれ…天下は太平であった。いざなぎ景気が始まり、『3C時代』と言う言葉が生まれた。この3C…とは、クーラー、カラーTV、カーのことである。

 モノクロTV時代の主役が『ルート66』に登場したトロイ・ドナヒューやエド・バーンズの演じた私立探偵とすれば、カラーTV時代の主人公と成ったのは、ロバート・ボーンやデビット・マッカラム、ドン・アダムス等が演じたスパイだった。前年に放映された『ナポレオン・ソロ』に続き、『それ行けスマート』や『スパイ大作戦』と言ったスパイ物が大人気を博した。『バットマン』『奥様は魔女』が日本のブラウン管に登場したのも、ちょうどこの頃だった。

 また、白人が歌うロック全盛のなかで、オーティス・レディオングの歌うR&B『ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ』が大流行したのも新鮮なものとなった。そして、日本のミュージックシーンで忘れることの出来ないのが、あの『ビートルズ』の来日である。'62年10月に『ラブ・ミー・ドウ-』でレコードデビューして以来、全世界を魅了し続けたリバプール生まれの4人組がようやく4年後に日本上陸を果たしたのだった。羽田空港、宿泊先となった帝国ホテル…と行く先々に『グルービー』なる追っかけの群れが集まり、6月30日の日本武道館公演で興奮は極致に達した。

 興奮…と言えば、二輪世界GPでは、ホンダのRCレーサーが5クラス全種目でメーカーチャンピオンを獲得。レース史上初の完全制覇のニュースにマニアは熱狂。そのホンダはこの年、ドル箱であるスーパーカブC100のフルモデルチェンジを敢行。OHCエンジン搭載のスパーカブC50に生まれ変わったカブは、今日に至っても生産が続けられるベストセラーモデルとなって世界中で愛されている。アメリカで大ヒットしたビーチボーイズのヒット曲と同名の『リトルホンダ』には、リトルホンダP25(50cc)に乗るパサディナ在住のおばあちゃんが描かれており、日本でもヒット。このP25は、従来のモペットよりも更に簡素化されたもので、自転車に近い手軽な感覚で乗れるモペットとして親しまれたものだった。

 前述の二輪GPでの活躍とは別に、ホンダは4輪のF-1、F-2にも参戦していた。特に、ブラバムのシャシーに搭載されたF-2エンジンは破竹の11連勝を飾るなど、どうもこの時期のホンダは、レース三昧に明け暮れしていたようだった。

 一方、ロードスポーツ部門に参入して来たカワサキはと言えば、5月に成るとアメリカ向けに『サムライ』と命名されたA-1(250cc)を発表。ロータリー・ディスク・バルブを併せ持つ並列2気筒のスーパースポーツは、ライバルを一蹴するほどの俊足ぶりを発揮。アメリカではA-1をベースに開発された市販レーサーA1Rが大活躍。A1のブームは瞬く間にブームの渦中に躍り出ることと成った。

 スズキはこの年、独自の分離給油方式CCISを発表。市販車では『白鳥』のスタイルをイメージしてデザインされたと言う『モペットU50』の発売を開始。U50は、従来の同社製モペットM30のフレームを変更し、乗り降りの容易さを追求したモデルで、その優雅な曲線美で好調な売れ行きをみせた。

 '66年は、いささか停滞気味であったスーパースポーツ部門で、A1と言うカンフル剤が投入されたことによって、競合するYDS3やT20が翌年に向けて過激なパワー競争の渦に巻き込まれ、2ストローク勢の未来は俄然活気を帯びた波乱含みの展開を顕著なモノとしてなって来た。

 前年の暮れに完成した『富士スピードウエイ』ではこの年、柿落としに二輪レースが開催されている。MCFAJ主催のこのレースは、第7回全日本モーターサイクルクラブマン・レースで、大会の歴史をさかのぼれば、第1回大会はあの浅間火山レースでもあった。

 一方、世の中は突如として奈落の底へと突き落とされるような大惨事が続くこととなる。全日空の羽田沖事故、BOACの富士山麓での事故、再び…全日空の松山沖事故と空の惨事が相次いだことが要因と成った訳ではないが、この年の年末には衆議院の『黒い霧解散』で幕を閉じることになる。「ビックリしたな〜もう!」の1年であった。 

 

250 A1

(リード)

これは2輪業界に限ったことではないが、資本主義社会に於いてアメリカという巨大マーケットは、限り無い可能性を秘めている。近年、その衰退ぶりが懸念されてはいるが、依然としてアメリカは、世界最大の消費マーケットであることにかわりはない。まして、そのアメリカが富を謳歌していた1960年代には、我が国に限らず、英国、西ドイツといった主要な2輪生産国は例外なく、アメリカ人の要求に合わせて、ニューモデルを開発していた。1960年代前半に日本国中を巻き込んだ250ccロードスポーツのブームも、元をただせばアメリカ市場のニーズに端を発していたのである。

(本文)

 後発メーカーとして2輪業界に参入したカワサキも、例外にもれず、アメリカ市場を睨んだ商品開発を行うことになった。その結果、対米輸出モデルの先兵として、250ccのロードスポーツが選ばれたのは、当然の成り行きといえた。1960年以来、川崎明発工業から受け継いだ2サイクルの小型実用モデルを主体に生産を続けてきたカワサキにとって、本格的なモーターサイクル・メーカーへ飛翔するためには、アメリカ市場が望む250ccクラスのロードスポーツの開発が必要不可欠だったのである。

 対米戦略モデルとして、250ccクラスの計画がスタートしたのは1965年のことだった。当時すでに、アメリカ市場での小型モーターサイクルのシェアは、国産メーカーによって独占されていた。そこで、カワサキのエンジニアは、CB72、YDS、T20といった国内のライバル車をターゲットに、スポーツ・モデルの開発を行うことになった。最後発メーカーとしてアメリカ市場を狙うカワサキとしては、こうした国産のクウォーター・ロードスポーツ群を凌ぐ性能を確保することが、第一目標とされた。当時のカワサキには、ひとつの技術的な切り札があった。GPレーサーで好成績をあげていた、ツインロータリーバルブ方式の導入である。このカワサキの目論見は見事に的中した。カワサキの250cc2サイクル・ツインは、実に31馬力を絞り出すことに成功したのである。

 スポーツモデルとしては珍しく、53×56mmというロングストローク・タイプに設定されたこのエンジンは、キャスト・イン・ボンドと呼ばれた最新テクノロジーを用いて設計/製作されたアルミシリンダー・ブロックに鋳鉄ライナーを鋳こんだ新開発のシリンダーを採用したことによって、熱対策も万全に施されていた。また、カワサキ自身がスーパールブと呼んだ分離給油システムが採用されたことにより、現地のハイウェイを舞台とした高速走行テストでも、抜群の耐久性を発揮したのである。

 一方、フレームに関してもレーサーで実績のあるダブルクレードル・タイプが新設計されたが、こうした開発過程では、カワサキ初の工場レーサー、KACスペシャルの開発作業で得た経験が大いに役立つことになった、といわれている。

 1966年 6月、カワサキが全力を投入した新ロードスポーツ『250 A1』が“サムライ”と命名されてアメリカでデビューを果たし、ニューヨーク・ショーを皮切りに全米各地の展示会でマニアの注目を集めることになった。ここで、A1の最高速は165km/h、SS1/4マイルは15.1秒という基本スペックが発表されたが、この数値は当時の250ccクラスの常識を遙かに凌ぐものだった。実際に、A1はストックのままレースに参加しても、大排気量のハーレーやBSAよりも速かった、といわれている。また、ココナッツ型と呼ばれたタンクは、当時の流行に従ってツートンカラーに塗り分けられ、随所に多用されたクロームメッキとの対比が、アメリカ人好みの華やいだムードをA1に与えていた。

 アメリカで大成功を収めたA1は、同年8月から、国内販売を開始した。当時、クラス最速といわれたT20を軽く凌駕したA1は、国内でも好評をもって迎えられた。ただひとつ、国内向けのアップハンドルだけは、不評を買うことになった。たしかに、この部分が全体のバランスを崩していたが、カワサキは頑なにアップハンドル仕様を供給し続けた。そのため、腕に自信のあるマニアは、密かに輸出仕様に改造して、A1の高性能を楽しんだ。こうしたマニアにとって、A1のクロスレシオの5段ミッションは、たいへんに魅力的に映ったものだ。頻繁にシフトチェンジを繰り返して、エンジンを7500回転付近で使い切れれば、A1は期待通り250ccクラスとは思えないほどのハイパフォーマンスを発揮した。飛行機屋のつくったロードスポーツは、軽量化も徹底していて、145kgと軽量に仕上がっていたA1は、途方もないじゃじゃ馬ぶりを発揮したのである。

 反面、ロータリーバルブの特性で、A1はトップギアで40km/h走行という芸当も披露した。さすがに、そこからの加速は受け付けなかったものの、全開時の250 átというクラスを超越した高性能ぶりを体験したマニアにとって、A1のフレキシビリティーはちょっとした驚きだった。月産500 台のペースで量産されたA1は、内400 台が輸出に回された。このA1のデビューによって、カワサキのイメージは全世界的に一新されることになったのである。


A1R

(リード)

1966年に開催された日本グランプリが、A1Rのデビューレースとなった。発表間もないカワサキ初のロードスポーツ、A1をベースに製作されたA1Rは、金谷秀夫らのライディングでジュニアクラスのレースに参加、ヤマハのGPライダー、G・ニクソンを相手に、いきなり緒戦からデッドヒートを展開したのである。そして、翌1967年にデリバリーが開始されると、A1Rは、ノービス、ジュニアクラスのライダーに、圧倒的な支持を得ることになった。

(本文)

 市販されたA1Rのエンジンは、A1用の250cc空冷2サイクル・ツインを元に、ポートタイミングを変更して、圧縮比を7.0 から8.0 に高めるなど、ごく控え目なチューニングが施されていた。それでも、ロータリーディスクバルブのためにクランクケースの両端に取り付けられたキャブレターは、ミクニ製のフロートチャンバー別体式の口径26φに変更され、排気系にはエキスパンションチャンバーが装着された結果、最高出力はノーマルの31ps/8000 rpm から40ps/9500 rpm にアップしていた。また、こうした高回転化にともない、潤滑系はスーパールブ方式の直接給油に加えて、15:1の混合ガソリンが併用されることになった。

 一方、車体まわりをみると、ダブルクレードルフレームに関しては基本レイアウトに変更はなかったものの、前後のドラムブレーキは、前輪が180mmから200mmにサイズアップされ、リヤは180mmの径はそのままだが幅が広げられていた。こうした2リーディングシュー・タイプの軽合金製ダブル・ドラムは、当時のレーサーの象徴ともいえる部分で、A1Rは市販モデルにはない迫力を醸し出していた。

 エクステリアに目を移すと、カウリングの左右にはキャブレター用のエア・スクープが開けられいたのが、ロータリーディスクバルブのA一Rならではの特徴であった。また、やはり、左右に振り分けられたキャブレターに燃料を供給するために、A1Rの真っ赤なロングタンクには、2対の燃料コックが取り付けられていた。

 こうして、完全なレーサーに仕立てられ、市販に移されたされたA1Rは、世界中のプライベーターに愛用されることになった。ごく小数だが、ヨーロッパに輸出されたA1Rはその後、カワサキの支援を受けたD・シモンズやK・アンダーソンらによって、GPレースにも参戦することになった。

 しかし、カワサキがA1Rの主戦場として選んだのは北米大陸だった。いや、換言すれば、A1Rはアメリカの巨大マーケットを睨んで誕生した、といっても、あながち間違いではないのである。当時、アメリカ市場に進出を果たしたばかりのニューカマー、カワサキはレースによって自社の技術力を誇示しようと目論んだのだ。今も昔も、メーカーの知名度アップには、レース活動が効果的なことにかわりはない。実際、我が国の2輪メーカーはレースを足掛かりにして、世界市場を制覇したのである。こうした事実を考えれば、カワサキの狙いも的を射たものだった。

 カワサキは、完成したA1Rを大量にアメリカに送り込んだ。そして、現地のKMCにそのレース運営を一任したのである。そして、AMAのレギュレーションによって、A1Rは同シリーズのライトウェイトクラスに参戦を開始した。もちろん、目標とされたのはアメリカ最大のレース、デイトナ・ウィークの100 マイルレースだった。しかし、R・ホワイト、D・マン、B・エルモア、S・サベージといった錚々たるメンバーで臨んだデイトナ初挑戦は、散々たる結果に終わった。メカニカル・トラブルが続発したA1Rは全車、リタイアすることになったのである。

 そこで、翌1968年には、耐久性の向上がはかられた改良型のA1Rが投入されることになった。ライダーも大幅に入れ換えられ、R・ホワイト以外は、W・フルトン、R・ゴールド、P・ウイリアムスといった面々が、新たにチームに加わった。しかし、A1Rは再び、トラブルに泣くことになった。AMAシリーズでは善戦していたA1Rだったが、肝心のデイトナでは、勝利の女神に見放されたかのようだった。

 A1Rの生産は結局、2年で打ち切られることになった。かわってカワサキの市販レーサーは、1968年にはA7ベースのA7Rに切り換わることになった。このA7Rの登場によって、晴れてカワサキは、メインイベントの200 マイル・ナショナルチャンピオンシップ(350 〜750 átクラス) に駒を進めることになったのである。

 1969年は、100 マイル・ライトウェイトクラスにはA1RA、そして200 マイルにはA7Rでフルエントリーすることが決定され、GPライダーのD・シモンズらが加入して、いっそう強化された。また、日本からも安良岡健が初挑戦することになった。ちなみに、A1RAはワークスレーサーで、弱点だったフレームが新設計されていた他、キャブレターが大口径化され、点火系がCDIイグニッションに変更されていた。

 しかし、万全を期してエントリーしたA1RAの前には、昨年同様、再びヤマハのY・デュハメルが立ちはだかることになったのである。しかも、皮肉になことに、メインレースの200 マイルでは、A1RA要員のC・レイボーンが他メーカー車で優勝を飾ったのである。この200 マイルレースには、カワサキからもう一台、見慣れないエンジンを搭載したレーサーが出場した。カワサキのデイトナへのチャレンジはその後、この3気筒レーサーに引き継がれることになったのである。

風倶楽部

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